葬式の清め塩と友引(はらから56号)

福井新聞紙上でご覧になった方も多いと思うが、福井県の真宗教団連合が、迷信の根絶への第一歩として、葬儀の清め塩の廃止と、友引に葬儀を避けるという俗信に便乗して、友引の日を休日としている葬祭場に対して改めるようアピールを行った。(※福井市の葬祭場は年中無休)親鸞聖人の教えをいただくものとして、亡き人を、清めなければならない穢れた存在とみなす清め塩や、死者が友を引き、生きているものに災いをもたらす、(災いの最たるものが死)という考え方を脱却しようというのがその主張である。
生きているものにとって、死は恐れの対象である。それゆえ我々は日常では、なるべくその問題に関わりを持たないように、考えないように、あたかも臭いものに蓋をするように、耳をふさぎ、目をそらして生きている。しかしその「死」を否が応でも意識せざるを得ないのが葬儀である。その「いのちの不安」ともいうべき死の恐れを、友引の葬儀を避けてみたり、通夜・葬儀・火葬場の帰りに塩で清めてみたり、あの手この手で考え出した気休め・誤魔化しがこうした迷信に他ならない。
では逆に問いたい。我々が死なねばならないのは、よそさまの葬儀の帰りに塩をまかなかったからなのか。誰かが友引という、何の根拠もない六曜の単なる語呂合わせの日に葬儀を行ったからなのか。
友引に葬式を出そうが出すまいが、帰りに塩をまこうがまくまいが、我々は生まれた限りにおいて、必ず死んでゆかねばならない存在なのである。こうした迷信の根底にある、人間の持つ「いのちの不安」こそが、真っ先に解決すべき「後生の一大事」の問題である。
亡き人を得体の知れない、清められねばならない穢れた存在とみなすのか、後に残されたものにとって亡き人の死をどう受け止めるのかということが問われているのである。
迷信の問題は、その出所が人間存在の不安に根ざすものだけに、その克服は実は容易ではない。理性で(頭で)わかってもその中核に人間実存の不安が横たわっているからである。
亡き人を真の意味で追悼し、同時にわがいのちを安らかに生き抜くことが出来るためには、そのいのちの安らかに閉じられる道を確かに聴き開いてのみはじめて可能なことである。
浄土真宗にご縁をいただいて本当によかったと思う。自分のいのちでありながら、そのいのちの真の意味も、ゆくへも知らぬまま漂うように終わってゆかねばならないこのいのちに、如来のいのちを継ぐべきいのちであること、お浄土へかえるいのちであることが今、南無阿弥陀仏と告げられてある。
そのいのち、いつどんな形で終わろうとも、決して空しくは終わらさぬという如来様の誓いをただただ仰ぐばかりである。              住職

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