インド仏蹟参拝記(はらから57号)

昨年(2000年)十二月、十九年ぶりにインド仏跡参拝の旅行に出させていただいた。三回目のインド訪問である。
釈尊ゆかりの四大聖地、すなわちご誕生の地・ルンビニ(現在はネパール領)。成道(悟りをひらかれた)の地・ブッダガヤ。初めて説法された(初転法輪)の地・サールナート。そして八十年の生涯を終え、涅槃に入られたクシナガラ。
各聖地を巡拝しながら二千五百年の時空を隔てを超えて釈尊を偲ばせていただいた。
ところで今度の旅の目玉のひとつが、アジャンタ・エローラの石窟寺院群の訪問である。ボンベイ(現在名はムンバイ)から内陸部に入った都市オウランガバード郊外にそれはある。岩山をくりぬいて作られた石窟寺院の数々。ことに圧巻はエローラのカイラーサナータ寺院である。
岩山をノミと金槌だけで削りだして作られたまったく継ぎ目のない一つの彫刻ともいうべき建築物である。その大きさたるや、奥行き八一㍍、幅四七㍍、高さ三三㍍というとてつもないもの。屋上・内外壁などに精緻な装飾をほどこしてある。繰り返していうが、これが岩山を削りだして作られているのである。八世紀半ばに着手し百年以上の歳月を経て完成したもの。現地のガイドの説明によると七世代にわたる職人の手になるという。
こうした建造物を目の当たりにしたとき、現代日本人の多くが口にする、この世がすべて、人間は死んだら終いという考え方がいかにちっぽけなものであるかと感じずにはいられない。少なくとも、永遠というものを信じられる人にしかこうした事業には携わられまい。いや信じるとか信じないのレベルの話ではない。永遠の時を、事実として受け入れられるかどうかではあるまいか。
法蔵菩薩の五劫の思惟の説。四十里四方の大岩を、三年に一遍天女が羽衣でひと撫でし、その繰り返しの結果、大岩が磨り減って無くなってしまうに要する時間を一劫とし、その五倍の時間をかけて私を救い遂げる方策を思惟されたと無量寿経は説く。そんな大岩があるはずがないとはインドでは通用しない。デカン高原自体がいわば大きな大きな溶岩台地の岩山なのだから。
私の命は大きな大きな命の流れの中に包まれてある。たとえこの今の命が終わっても、それは死んで終いになってむなしく滅びるようなそんなちっぽけなものではなかったのだ。
釈尊がお歩きになった同じ大地に立たせていただき、無量寿という桁外れにスケールの大きい「時空」というものをインドは感じさせてくれた。
カイラサナータ寺院関係のサイト
http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/unesco/03_kailasa/kailasa.htm
http://www10.tok2.com/home2/nagon3/india/india-16-01.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3
どうぞ、直接これらのサイトを覗いてみてください。

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