薩摩かくれ念仏遺跡参拝記(はらから58号)

かくれ念仏の由来について
去る六月二日より、千福寺門徒中心に鹿児島のかくれ念仏遺跡参拝と南九州の旅行を催しました。鹿児島のかくれ念仏については、案外知られていないので、「かくれ念仏」について記してみたいと思います。
始めに
薩摩の国、鹿児島では、今から約百三十年前の明治九年までは、島津氏によって三百年近くの間「念仏」が禁止されていた。そして「念仏禁制」を破った真宗門徒は言語に絶する拷問や弾圧を受け、島流しや死刑に処せられた。こうしたあらゆる迫害に耐えながら、幾多の血を流し、人里はなれたところに洞穴を掘り、あるいは柱をくりぬいてご本尊を隠し、あるいは行商の魚かごに御影像を秘めながら「かくれ念仏」としてその法灯を護り続けてきたのである。
念仏禁制の理由
北陸などにおける一向一揆を伝え聞いた島津氏が、薩摩・大隈・日向の三州統一にあたり、領内における真宗門徒の一揆を恐れ、真宗排斥へと進んだものと考えられる。
真宗禁止令の発布
天正五年(1577年)三州統一が果たされ、ついで北九州制覇へとのりだそうとしたものの、天正十五年(1587年)豊臣秀吉の薩摩攻めにより降伏し、島津家は薩摩・大隈・日向の三国を安堵され、以後近世大名として存続することになる。しかし、この過程において、多くの矛盾が露呈し、家臣内部から島津氏から離脱しようとする動きが出てきた。こうした島津権力の脆弱さと家臣団の不統一などが一向一揆の発生の危険性をはらむとみた島津義弘は、慶長二年 (1597年)正式に真宗禁止令を出した。
殉教のはじまり
慶安二年(1649年)、ついに殉教者が出る。藩の記録に「一向宗統領」と記されている宮原真宅が磔の刑に処せられたのである。藩はまず、念仏者の中心人物を処刑したのである。そして寛永十一年(1634年)から寛文年間(1661~)にかけて、郷士層の信者が摘発され、名跡・知行・屋敷を没収し、身分を百姓へ落とし、居住区を移すという処分が行われた。つまり士分の真宗信者を摘発し、異常に多い武士人口の削減を図ったものとも考えられる。
過酷な弾圧
その後、藩はしばしば禁止令を発布し、取り締まりの制度も確立した。幕末の天保六年(1835年)にいたって弾圧は極に達した。現在聞かれる殉教悲話の多くは、この頃のものである。
幕末期の弾圧の理由
本願寺と薩摩藩の財政改革が相俟って、門徒が本山へ上納する講金と阻止しようとする経済的な理由と門徒の信仰組織である講のリーダーは下級武士や村の中心人物であったことから下級武士と農民がいったいになった一向一揆を恐れたことなどが挙げられる。
弾圧に屈しなかった
真宗門徒
薩摩の門徒は、このような弾圧下にあってもひそかに信仰を相続し、正確な数は把握できないが、信者の数も増加の一途をたどる。これらの人々は、人里はなれたところに洞穴を掘り、夜間ひそかに集まり、ご法義をよろこび、或いは船上で法座を開くなどして、親鸞聖人の教えを確かに相続していったのである。また門徒は隣国の寺院の法座にも探索の役人の目を逃れて参詣した。水俣の源光寺には薩摩の門徒が隠れてお聴聞した薩摩部屋が残されている。このように様々な手段をこうじて、それこそ命がけで薩摩の門徒はお念仏を護り通したのである。
本願寺の伝道
本願寺もこのような薩摩門徒には特別の配慮をはらい、伝道した。他の地方では許されなかった親鸞聖人・蓮如上人の連座絵像や、隠蔽しやすい小幅のご影を下付したり、上山した門徒に対しては、特に厚遇をもって迎えたりした。さらに命がけの使僧の派遣も行われ、幕末までに三十人近くの使僧の名前の記録が残っている。
明治以降の薩摩の開教
江戸時代後期から積極的に薩摩門徒に布教していた本願寺は、明治維新を迎えるといち早く開教に着手した。
明治九年九月五日、信教の自由が発布され、三百年以上にわたる真宗禁制が解かれたものの、神道国教化政策による廃仏毀釈運動や、西南戦争などがあり、苦難が続くが、それらの困難を乗り越えて明治十一年には鹿児島別院がついに創建されるにいたった。
現在の鹿児島の浄土真宗
本願寺派鹿児島教区には現在、百六十六ヶ寺の本派寺院があり、北陸と同様に多数の門徒がお念仏の生活にいそしんでいる。その同信の人々の懇念により、本願寺派鹿児島別院が総工費二十二億円をかけて再建された。この鹿児島別院の境内の一角に、弾圧・拷問に使用されたといわれる石が置かれ、今日まで過酷な弾圧に耐えお念仏を伝えてくださった方々の殉教の悲話を静かに我々に語りかけている。
http://www2.hongwanji.or.jp/kagoshima/kyoumu/index.html
(鹿児島別院のホームページ かくれ念仏について)
参拝旅行を終えて
旅行初日はそこそこのお天気だったが、二日目はあいにく鹿児島地方が梅雨にはいり、荒れ模様となった。その中、知覧に残る立山のかくれ念仏洞と、知覧の特攻基地跡の平和館を見学。住職の生寺で門徒さんの歓迎を受け昼食。霧島温泉で二日目の旅の疲れを癒す。この夜の宴会の盛り上がったことは、雨にたたられた憂さを一気に晴らしてくれた。
最終日、都城の安楽寺を訪れ、住職のスライドを使ったかくれ念仏の弾圧の歴史、殉教の悲話などお聞かせいただき、参加者全員が胸に熱いものを感じさせていただいた。
残念な雨模様ではあったが、皆さんが感銘深い有難い旅行でしたと感動を胸に、千福寺の永代経での再開を約束して解散した.。 住職

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