信は荘厳より生ず/こころとかたち(はらから59号)

あるお宅に四十九日の間のお勤めに詣ったときのこと。ご家族の中に他宗教の方がおられる。いわゆる新興宗教といえる宗派に属しておられる方である。七日ごとのお参りの間、毎回必ず黒の礼服をきちんと着て一番前にすわっておられるのである。お勤めと御文章が終わって後ろを振り返ったとき、その方が手にしていた念珠を袱紗に丁寧に包んでポケットにしまわれた。私は現在の浄土真宗の衰退(あえてすいたいという言葉を使う)の大きな原因の一つを教えられたと思った。
私たち日本人は大切に思うものは床や畳の上に直接置かないという躾を受けてきた。家族の写真や、あるいはお金にしても床の上に落ちていたら拾い上げて一段と高い場所、例えばテーブルなり戸棚なりにそっと置くではないか。
念珠や聖典(お勤めの本)、門徒式章など床や畳の上に置かないという躾が今忘れ去られようとしていると感じるのは私一人だろうか。無論今でもきちんと念珠入れやお参りするときに用いる小さなバッグをもって床におかずにその中にしまわれる方もおられることは否定しない。しかし聖典や念珠を畳の上において少しも気にする様子のない人が増えているのも確かである。
そんなことをしていると罰があたりますよとは浄土真宗は説かない。逆に罰や祟り(たたり)を恐れることから解放され、真に自由な人生を開いてくださるのがお念仏の教えである。だからといってお念珠や聖典を床に置いて構わないわけではない。仏様の教えが尊いものとしていただけないからといって粗雑に扱って構わないのではない。大切に扱う作法・躾(=形)を通して、その尊さを知らされていくのである。
心があれば形式にこだわることはないと現代人は形式を軽んじてきた。儀式を軽んじ、作法を軽んじ、躾を軽んじ、その結果、心が見失われた。大きな誤解であろう。形式・作法・儀礼・お仏壇のお荘厳を含めこうした形に託して大切にその心は伝えられてきたのである。
思い内にあれば色 外にあらわると古人はいう。仏様を尊いお方といただける人は、それが何らかの形で外に現れるだろう。しかしそうでない者は、先ず形から入るより手立てがない。躾とはその躾を通して大切にしなければならないものを知らされることであると思う。
福井にきた当初、感激したことがある。戦前のお生まれの方のほとんどが共通しておっしゃること。それは、朝お仏壇にお参りしないと朝ご飯を食べさせてもらえなかったというものである。仏様の教えの尊さ有難さがわかったからお参りするのではない。分からないうちからそうした躾を通して仏様に頭を垂れ、手を合わせることの大切さを教えられたのである。
新宗教の方のお参りの姿に、「信は荘厳より生ず」の原点と 形をおろそかにすることは心を失うことであることを考えさせられた。

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