不自由と不幸(はかから60号)

不自由ということと不幸であることはその意味するところが全くことなるはずである。不自由を望む人はいないであろうし、すすんで不幸を願う人もない。だからといって、不自由と不幸は同じことかというと、そうではないはずである。
身内のことを申し上げて恐縮ではあるが、お許しいただきたい。私の生家の父は若いときから弱かった視力を晩年には完全に失い、眼の不自由を抱えてその生涯を終えた。しかし眼の不自由は隠しようのない事実ではあったが、不幸であったかというと話は別である。
生前こんな話をしてくれたことがある。ご門徒の法事に出かけた折、お斎(おとき)の席で隣に座られた、校長まで勤め上げられたという親戚の方からこんな質問を受けたという。
「ご住職。お見受けした所大分眼がお悪いようですね」
「はい、今ではほとんど見えません」「そうですか。それはご不自由なことですね。でもあなたはお坊さんなのだから、信仰の力でそれは何とかなりませんか?」
校長まで勤め上げられた教養人であるはずのこの方の質問の意図が、どこにあるのか明らかである。信仰の力でその不自由な眼が自由に見えるようになってこそ信仰のご利益であり、それが宗教のすくいなのではないかということであろう。宗教というものに対する認識がこの程度のものであったわけである。
しばらく考えて父は逆にこう問い返した。
「あなたから見てわたしは不幸な人間に見えますか」「いや。目はご不自由なようですが、不幸を背負ったような暗さは感じられませんね。」「そうですか。ありがとうございます。あなたにそういっていただけたのなら、もう何とかなっているんですよ」
視力を失うことによって引き受けねばならない不自由さは筆舌に尽くしがたいものがあったはず。しかし光を失うことによって知らされた世界もあることをよろこぶ智慧を、お念仏の中にいただいていたればこそである。
そのひとつ。肩に手をかけさせてもらい先導してくださるご門徒の肩のぬくもりは、目が見えたままの一生だったら知らずじまいだったろう。それやこれや、喜ばせてもらえることを思えばあまり暗い顔もしていられないと冗談話に笑いながらよく述懐していた。
不自由は隠しようのない事実でも、自分は幸せ者ですといえる智慧こそご利益に他ならない。

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