よくみれば ナズナ花咲く 垣根かな(芭蕉)/(はらから61号)

突然ですが、昨年の秋ころからぼちぼち出始めた植物への関心の熱が、雪解けと共に大ブレーク。本堂と門徒会館の間の狭い日当たりの悪いスペースに、あちこちの山野草を無秩序に植えております。
昨秋、戯れ半分にこのスペースにチューリップの球根を子供と植えてみました。本堂の屋根から落ちて積もった山のような雪の下から春を告げるがごとくチューリップの芽がその顔をのぞかせたとき、自分は持ち合わせていないと思っていた植物に対する愛おしさがこみ上げてきたのです。ほとんど日のあたらないスペースゆえに、その長い首を少しでも太陽に近づけようとばかりに傾いて成長するけなげな姿に、花が咲いたら咲いたで競うようにその鮮やかな色を惜しげもなく披露してくれる潔さに心打たれたのです。
このスペースではチューリップがかわいそう、この日当たりの悪い所に適しているのが、いわゆる山野草ということで、頂いたり購入した山野草を移植しています。
表題に掲げた俳句は、松尾芭蕉の作。どんな植物も花を咲かせる。我々は目を奪う鮮やかな花、大輪の花には注目しますが、ぺんぺん草も花咲かせて生きていることに気が付きにくいですね。しかし詩人の目にははっきりと見えていたのです。薺も桜も牡丹もそれぞれに精一杯いのちを花開かせて生きている姿が。
植物学者として研究にいそしまれた昭和天皇が雑草という言葉を用いて質問する記者に「雑草という草はありませんよ」とたしなめられたというエピソードを先輩に聞かされたことがあります。自分の無知を棚に上げて名もない花と呼んでみたり、雑草扱いする眼には、精一杯花開かせて生きているそれぞれのいのちは見えてこないのではないでしょうか。かくいう私がまさにそうでした。
経典は私たちのことを群萌(ぐんもう)と呼んでいます。群萌とはいわば雑草のようなもの。仏様は我々を雑草扱いなさるのかと早とちりしないで下さい。花開かせて生きていることにも気づかれず、生きた痕跡もとどめることなく、時には踏まれ、邪魔者扱いされ、引っこ抜かれかねないのが群萌。それは私たちの現実のいのちのありようと重なります。しかしその一つ一つ、一本一本のいのちに、無限の慈悲を込めてみそなわす眼差しが注がれてあったのです。
人の評価がどうあれ、私はあなたが精一杯いのち花開かせて生きている姿をちゃんと見とどけているよと呼びかけたもうお方を如来様と呼ばせていただくのです。      住職
なずな
ナズナ(薺) 別名 ペンペン草

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