他力のお育て/梯 実円 先生法話(はらから65号)

去る、6月22日(金)(2003年)本願寺勧学 梯實圓(かけはし じつえん)先生をお招きしての千福寺特別法座が開かれた。
梯先生のご法話は題して「他力ということ」。オリンパス光学が、全国紙を使っての「他力本願からぬけだそう」のキャンペーンを行ったことに対し、誤用に対する訂正要求はしたものの、肝心の私たち真宗門徒が他力に対する正しい理解をしていないようでは本末転倒。
そこで、親鸞聖人のお示しくださる「他力本願」の正しいいわれについて、お話を賜った。
法話の要約
「自力・他力」と対して使われることが多いが、親鸞聖人の他力観は阿弥陀如来を中心とした世界観を確立するところから出てきたものである。私たちは、自己中心の世界を構築し、好き・嫌い、敵・味方と分節して人間の生活を営んでいるが、その物差しの基準はどこまでいっても自己中心でしかない。
仏教の目指すもの、それは究極的には自己中心の脱却である。私たちは自分の上に幸せが実現しますようにと願いをもつが、ひるがえせばそれは不幸を他人に押し付けていることに他ならない。その考え方の延長上に幸せが実現する筈がないではないか。不幸をたらいまわしにして、自分だけ幸せになろうという考え方をどこかでひるがえさない限り、真の幸福は実現されるはずがない。仏教の慈悲といい、あるいは幸福といい、それとは全く逆の世界である。悲しみや不幸は私が引き受けます、あなたは幸せになってください、あなたが幸せになってくださることが私の幸せなのです。といえる心の領域に目覚めさせてていただくことが仏法にあうということではないか。
阿弥陀如来は、このように自己中心的にしかものを見ない、理解しようとしない私を目当てとして、「汝」と呼びかけてくださる。すなわち、中心は向こうで(阿弥陀如来が主体)そこでは、私は知るものから、知られるもの、思うものから思われるもの(私は客体)という、主体の転換が行われる。
あたかも、磁石が鉄をひきつけ、鉄の原子構造の並び替えがおこなわれ、その鉄がまた他の鉄をひきつける磁石となるがごとく、阿弥陀如来の願いにうなずき、如来から願われる自己であったと気づかされる目覚めを促すのが他力の働きである。
鉄は何処までも鉄でしかないが、磁石にひきつけられることにより、「汝は如来の子」であるという阿弥陀如来の呼びかけに、勿体のうございますという感謝、そして如来の子として願われながら、如来の子らしからぬ生き方しかできないことの申し訳なさ(慚愧)が生じる。
そしてこの悟りの領域からの働きかけによって、そこに私の「いのち」の意味と「方向性」をはっきりと知らされたことを他力のお救いと、親鸞聖人は喜ばれた。
(文責 住職)

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