不自由ということ、不幸ということ

不自由ということと不幸であることは意味が全く異なりますね。不自由を望む人は少ないでしょうし、不幸を願う人もないでしょう。だからといって、不自由と不幸は同じかというと、そうではないはずです。
私事ですが、私の父は晩年失明し、眼の不自由を抱えてその生涯を終えました。眼の不自由は隠しようのない事実ではありましたが、不幸であったかというと話は別です。
こんなことがありました。
ご門徒の法事に出かけた折、お斎(おとき)の席で隣に座られた、元校長であったという親戚の方がこんな質問をされました。
「お見受けしたところ、大分眼がお悪いようですね」
「はい、今ではほとんど見えません」
「そうですか。それはご不自由なことですね。でもあなたはお坊さんなのだから、信仰の力でそれは何とかなりませんか?」
校長まで勤め上げられた教養人であるはずのこの方の質問の意図が、どこにあるのか明らかです。信仰の力でその不自由な眼が自由に見えるようになってこそ信仰のご利益であり、それが宗教のすくいなのではないかということでしょう。
しばらく考えて父はこう問い返したそうです。
「わたしは不幸な人間に見えますか?」
「いや。眼はご不自由なようですが、不幸を背負ったような暗さは感じられませんね。」
「あなたにそう言っていただけたのなら、もう何とかなっているんですよ。」
不自由であっても、不幸ではありませんと言い切れる世界を頂いていればこそでしょう。お念仏は逃れがたい厳しい事実の中に、意味と喜びを見出す智慧のはたらきとなって、私の上に躍動していてくださいます。
(善巧寺便りへの投稿)

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  1. senpuku のコメント:

    てんびん秤さま、コメント有難うございます。

    暑さもやっと本格的になったと思ったら、すでに朝晩は秋の気配。
    そちら様のブログを拝見しつつ、ホンワカと暖かい気持ちのオスソワケをいただいております。
    こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。

  2. てんびん秤 のコメント:

    先日は、いいお話を有難うございました。
    車の中で今、何回も何回も聞かせて頂いております。
    逆謗の死骸 私自身のことを味あわせて頂きながら、また、お念仏させて頂いております。・・・

    と、簡単に、言葉遊びのように書いてしまう私自身、どれだけわかっているのでしょうか。
    でも、こんな私も含めて包んで下さっていることを感じて又、ささやきながらお念仏していきたいと思います。

    今後ともまた、よろしくお願いいたします。

  3. senpuku のコメント:

    青山君、(高校の同級生ゆえ、様・さんづけは水臭いと思うので君づけで呼ばせていただきます)ようこそ拙寺のホームページへアクセスくださいました。
    高校同級生の掲示板で貴君のスポーツ事故のことを知り、その障害を受け入れつつ力強く生きておられるご様子に同級生としてこちらが励まされることです。
    お釈迦さまに「第二の矢を受けない」というお言葉があります。お釈迦様にも敵対する人はあったし、非難の言葉を浴びせられることもあり、それを矢を射られたことに喩えられました(第一の矢)。しかし傷つけられることはあっても、そのことで怒り狂ったり、絶望したりして自分自身を見失わないことを第二の矢は受けないと仰ったのです。
    自分の心に振り回され絶望したり、逆におごり高ぶったりすることなく、障害は障害として受け入れながらしっかりと地に足の着いた生き方を模索されるお姿に、お釈迦さまの「第二の矢は受けない」というお言葉を思い出させていただきました。
    有難うございました。今後ともよろしくお願いします。

  4. 青山 龍二 のコメント:

    不幸と不自由が違うとこのお話しを知って、私は目が覚めた思いでした。左半身麻痺というスポーツ事故の後遺症から心が下向きでしたし自信のないことがこのお話しでふっきりと心の持ち方が変わりました。私は左の体の機能が不自由ではあっても右がある。動作に時間がかかってもできる。生きている幸せを大事にしようと思いました。事故のお陰で違った道を見つけることができたのも幸いでした。感謝です。

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