法名/仏弟子の名告り(はらから68号)

九月の上旬、鹿児島の祖母の二五回忌と叔父の七回忌の法要に帰省した。記念法話が千福寺にも何度かご縁を頂いた行信教校の天岸浄圓先生。先生のご法話を通して味わったことを記してみたい。
法名とは仏弟子としての新たな名乗りの名前である。帰敬式(おかみそり)を受けられた方は、本山のご影堂で、御門主の称えられる南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧の三帰依文に続いて称えられたはずである。
今日以降私は、仏様を拠り所として(南無帰依仏)、仏様の説かれた教え=法を拠り所として(南無帰依法)、仏様の教えに従って生きようとする仲間(僧=僧伽)となって(南無帰依僧)生きてゆきますという、決意表明が、三帰依文を称えるということである。
私たちは生きてゆく上で、自分の経験・知識をあてたよりとして生きてきた。そしてそれでよいと思ってきた。しかし、それが仏様の智慧の眼から見たら、過ちであるといわれるのである。何故か?
それは、私たちの思い、経験、判断、認識の全てが自己中心を一歩も出ないものであるからであると仏様は教えてくださる。
我々はよく、男には女の気持ちはわからないという。同じく女には男の気持ちはわからないという。あたりまえといえばあたりまえ。私は女の経験はないのだから。自分の経験したことのないものを分れというほうが無理。無論その逆もいえる。このこと一つとっても、自分の経験、知識が自分を一歩も離れられないものであることは明白。さらには同じような経験をしたとしてもその受け止めようは一人一人違う。
自己中心のものの考え方を離れよと誰しもが言う。自己中心があるべき姿でないことは誰も分かっているようであるが、誰一人それを自己の上に実現した人はない。唯一お悟りを開かれた仏陀を除いて。
仏法は無我を目指す教えである。そしてそれが本来あるべき姿であると説かれる。自我から一歩も出ることの出来ないものに、自己の力でその殻を破り、無我に到達する道はない。無我を目指すとは、自己を超えることに他ならない。自己を超えようと思うなら、唯一その無我を自らの上に体現された方(=仏陀)の教えと導きによるしかその手立てはないではないか。
我々の認識は常に自己中心を物差しとしている。自分のいるところを「ここ」といい、離れれば「遠い」といい、遠くのものは音も、姿も小さくなる。
そしてその自分の思いの中で行き詰まったり、腹立てたり、憎んだり、愛したり。
自己を超える道を、無我への道を生きてこそ、真にこの命が実りあるものになることを教えて下さる方を仏様と呼ぶ。そしてその世界へ導いてくださる仏様を拠り所として生きるものとして、その仏様の弟子として仏様に導かれてこの命を生きてゆくものとしての名告りが、法名なのである。   住職

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