親鸞一人がためなりけり(はらから70号)

去る6月3日、梯實圓先生の特別公開法座でのご法話より、私なりに味わわさせていただいたことを記す。
『歎異抄(唯円房述)』の後序に《聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひし》という言葉がある。
善導大師は、自己の抱えた煩悩ゆえ罪業を重ねながらしか生きられず、悟りへの手がかりのないこの自分を(=機の深心)、それゆえにこそ救わねばおかないと立ち上がられた阿弥陀如来の救済の確かさを法の深心として仰ぎ慶ばれた。
親鸞聖人の御述懐は、人間の想像を絶する、五劫というとてつもなく長い時間をかけて私を救う手立てを思案された阿弥陀如来の思惟の内容全体が、私にかかりきりでのご苦労でありましたと、「親鸞一人がためなりけり」と嘆じられたものである。
「かたじけなさよ」とはその慈悲の深さ、確かさを慶ぶと同時にそこまで如来にご心配をかけどうしの自己の煩悩を、罪業を恥じ、申し訳なくいたむこころに他ならない。

「浄土真宗はありがたい宗教ですな。私ら何にもせんでも、阿弥陀さんは救うてくださるそうですから、私ら〈ホトケ ホットケ〉ですわ」と笑って言う人がある。
こうした言い方をする人の言葉を聞くたびに悲しく思う。
違うのだ。そうではない。私にああなれば救う、こうしなければ救わないというような注文、指図を一切なさらずに、汝を、その罪がいかに重く深くとも、必ず漏れなく救い遂げることのできる仏となるというお誓い(=本願)の底に、私の造る罪の深さを誰よりも知り抜き、それを痛んでおられる阿弥陀様の悲しみがある。
慈悲を慶ぶとは、そこにあぐらをかいて横着を決め込むことではない。如来様を悲しませているのは他ならぬ私でした。私の心の底なしの暗闇、果てしない罪業の深さを知り抜いた如来様のお慈悲は、それゆえに底なしに深いものでしたと知らされることがお慈悲を慶ぶ姿ではなかったのか。
行信教校を創設された利井鮮妙和上の晩年の歌が、その心を鮮やかにお示しである。
子の罪を
親こそ憎め 憎めども
捨てぬは 親の

慈悲(なさけ)なりけり

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