仏さんのような人(はらから73号)

あの人は「仏さんのような人だ」という言い方で人を評することがある。
住職の故郷である鹿児島でもそうした言い回しを子供のころ耳にした。そうした言い回しは勿論福井でもかつてはあった。
「仏さんのような人」とは、具体的には自分の都合や欲を後回しにしてでも、他者の悲しみや苦悩に共感し、少しでも手を差し伸べようとする慈悲の心を感じさせるような方のことであろうか。
仏教とは仏様が説かれた、この私が仏様になる(=成仏する)教えである。そして仏とは、他者の悲しみ・苦悩をわが事と引き受け、あなたは幸せになってください、あなたの悲しみは、苦悩は私が引き受けます(梯 先生の言葉)と言い切ってしかもそれを実践できる者であると仏様自らが、明かされた。
私たちには想像することすら及びもつかないようなかくのごとき崇高な願いに生き、他者の救済活動の中に自らの喜びを見出し、しかも一切それを誇らない。仏教はそれが一番尊い生き方であることを教えている。
仏教を聴くまでは、仏様の心に聞き触れるまでは、せいぜい自分の思いの中にしか生きる意味を見出せなかった私に、その私の苦悩と悲しみを見据え、共感し寄り添い、この私を幸せに出来なかったら自らも悟りを開いた仏陀と呼ばれる資格はないという願いを掲げて立たれた方を阿弥陀仏と呼ばせていただく。
見るのも、聞くのも、思うのも自分であり、あたかも自己を確立することが人間の一番の生き方であるかのごとき迷妄に生き、終わっていかねばならない筈の私であった。その私を目当てとして、私以上に私を大切に思い続けていてくださる方があることに気付かされ、その願いに感動しその御心の前に頭を垂れる人を仏教徒という。同時に仏教の歴史とはこうした仏様の願いの前に額(ぬか)づいてこられた方々のいのちの歴史でもあった。
頭を垂れたからといって、私が仏様に近づいた訳では決してない。仏様のお心に感動する心は、私が起こしたものであろう筈がないではないか。命尽きるまで自己中心から一歩たりとも離れることのできないのがこの私である。
私たちが頭を下げる時を思い起こしてみよう。感謝のお礼をするときであり、またお詫びをするときである。かくも崇高な願いを掲げこの私を仏様の子として呼びかけてくださることにたいするかたじけなさと有り難さ、しかしその願いをかけられながら仏様の子らしからぬ生き方しかできぬ自己の浅ましさを慚愧するこころ。
良いことをしても誇らぬ、自分の感情に振り回されぬ、しかし凡夫でしかない自分の分際をしっかりとわきまえた方を「仏さんのような人」と私たちは親しみと敬意を込めて呼んできたのであろう。
写真は因幡の源左同行

源左同行
(お手次ぎ寺願生寺様本堂にて)
因幡の源左同行について知りたい方は、源左(げんざ)で検索してみてください。源左さんに関するたくさんのエピソードがアップされています。

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