大悲無倦(はらから74号)

千福寺本堂の正面上部に立派な額がかかつた。
彫られた文字は「大悲無倦(だいひむけん)」
親鸞聖人がお書き下さったお正信偶の中の、源借僧都(げんしんそうず)のお徳を称えられた「大悲無倦常照我」の句からいただいた。揮毫は、毎年千福寺にご出講いただいている梯實圓先生によるものである。
大悲とは大いなる如来様の慈悲の事。衆生の苦悩・悲しみをあたかも我が事の洋に受け止め、その苦悩、悲しみを除かんとしてはたらいておられる活動相を大慈悲という。
無倦とは、倦怠ということの反対の意味で、飽きることがなく、ものういという事がないということである。この私を倦むことなく、何よりも大切に念じつづけ照らしつづけていてくださってある、如来様のお心を、これほど端的にあらわしている言葉を私は他に知らない。
私の心とは、縁に触れればどんなに堅い決心でも、もろくも崩れ去るようなたよりないものでしかない。
幼いときも壮年のときも、老いたるときも、浅ましい煩悩に狂わされ自分自身を見失いそうになつたときも、片時も離れることなく倦むことなく私を包み頼らしつづけていてくださる慈悲のみ光があつたことに気づかされたとき、私は生きてゆける、そしてこのいのちを終わってゆける。しかもそれは私にとっては死を意味しない。無量寿といわれる永遠のいのちの世界に生まれてゆくことだったと知らされた。
この言葉の持つ響きの何と温かく、また力強いことか。しかしそれはこれ以上もなく厳しいものでもある。何故なら大悲とは誤魔化しがきかない如来様の眼差しであるからである。
揮毫して下さつた梯 實圓先生は、かつてこんな言葉で、大悲に包まれて生かされるものの姿勢をお示しくださったことがある。
「如来さまとは、時と所を超えていつも私と共にいて下さる方です。
私のすペてを知り尽くして私を凝視したまう厳しい智慧の視線を感じるとき、私は身震いするような畏れにうたれます。
しかし、如来さまの慈愛のまなざしは、あさましい私のすべてをそのまま受け容れて、春の陽光のように暖かく包みたまうとお聞かせにあずかるとき、私は私のすぺてを知り尽くした方に、身をまかせるようになります。
如来さまの厳しい智慧の眼と、暖かい慈悲のまなざしに見守られている事を実感するものは、撤慢にもならず、卑屈にもならず、遠慮もせず、気ままもせず、おおらかに、しかし慎みふかく生きようと心がけます。
そして死は浄土に生まれていく機縁であると領解して、死を受容することともできます。」と。
ある方は、こう味わわれた。お念仏に出会い、私という人間は敏慢でそのくせいじけやすく、一見、遠慮深そうな格好はするものの本当は横着者であることに気づかされましたと。
如来様のこの温かく厳しい眼差しに私たちは念仏者として育てられつづけるのである。

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