日別アーカイブ: 2006 年 3 月 1 日

卒業式

3男坊の卒業式にトモコとともに出席してきた。
こちらの年齢が上がるにつれて、ウルウル度が高くなってきている。
宗門系列(浄土真宗)の学校なので、大講堂(体育館)の中央にお仏壇があり、ご本尊を前にした仏式の法要で式が始まった。卒業生・在校生ともに今日だけは静かに式の進行に従っている。
(何度かこの学校の開校記念日に講話に来たことがあったが、そのときは先生方が生徒を静かにさせるのに苦労しておられた)
 親ばかを承知で息子のことを書かせてもらう。公立高校を失敗してこの学校を選んだ。先述した通り、浄土真宗系列の高校ゆえ龍○大学コースなるクラスがあり、ここに籍をおけばよほどのことがない限り、ところてん式に龍○大学へは進めることになっていた。
 3年前高校入学手続きのだんになって、学校側は当然龍○大学コースへはいるものとクラス分けをして下さったが、本人がいやだと龍○コースを拒否した。同じ龍○大学に入るにせよ、試験を受けて入ると言い張るのである。無論、内心他の大学へ行きたいという思いもあったに違いないが、とにかくそれを頑なに拒否した。
 止むを得ず学校側と交渉して一般の進学コースに入れていただいた。3年後の今、結果的には他の大学の受験も含め、親の負担は馬鹿にならなかったが、龍○大学に進学することとなった。親としては結果論とはいえ、試験を受けて合格通知をもらったことをよかったとおもっている。龍○コースのクラスの生徒は、受験のことを心配することがない分、のびのびと部活ややりたいことが出来る高校生活を送れただろう。しかしあえて進学クラスに身を置いて、部活も許可されず、いわゆる受験のために補習なども受けなければならなかったことも本人の人生には意味あることだったと思う。

 誤解のないようにお願いしたいが、推薦コースを選んだ生徒さんを楽なほうの道を選んだというつもりは毛頭ない。受験体制の埒外にあって、本当にのびのびと高校生活を送れたことも意義深いことだと思う。
 ただ、親の思いにどこかで反発しながら、他大学への失敗も含めて自分の選んだ道を歩み始めた息子を誇りに思う。

卒業式式典

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如月忌・九条武子夫人(はらから75号)

二月には如月(きさらぎ)という呼び名がある。二月七日は四三歳でその生涯を終えられた、本願寺二十二代門主、明如上人の妹で九条家に嫁がれた九条武子婦人の御命日であり、この日に西本願寺では如月忌(きさらぎき)と名づけて全国の仏教婦人が本山に会しての大きな法要が営まれている。
明治二十年、大谷家に生まれ二十二歳のとき、九条家に嫁がれた武子夫人は、恵まれた華族の生活を安穏とむさぼることなく、仏教の精神をバックボーンに仏教婦人会の全国組織化、社会福祉活動にその生涯をささげられた。
それまで尼講と呼ばれていた各地域各寺院の婦人の聞法の集まりを仏教婦人会と命名し、全国組織にまで育て上げ、また今の京都女子大学の前身である京都女子専門学校の設立に尽力された。
大正十二年九月一日、未曾有の大地震が関東平野を襲った。当時築地本願寺の一角に夫の九条良致(よしむね)氏と住まわれていた武子夫人は、自らも被災していながら、日本のボランティア活動の先鞭をつけたといわれる、救援活動にその身をささげて目覚しい活動をされた。九条武子夫人の著作で、大正時代の大ベストセラーとなった随筆集「無憂偈」(むゆうげ)の印税をなげうって、被災者救護施設を設立。後にそれが「あそか病院」となる。現在でも病院設立の基本理念に「病める人の母となり友となって、施療とともに精神的な安らぎを与えること」とある。
ただこの時のご苦労は確実に武子夫人の体を蝕んでいた。昭和三年二月七日、数え年四十三にしてその生涯を終えてゆかれた。
臨終の枕もとに駆けつけられた次兄の真宗木辺派の門跡である木辺孝慈師に最後の法話をお願いされた。
木辺師は「最早やこの世の人としてはお別れせねばなりませんが、どうぞお慈悲にすがって お浄土におまいりなされますように。次に起こすは、還相回向のはたらき、どうか再び娑婆世界に還って、弥陀大悲のおいわれをお伝へなされるやう」と法話をされた。
武子夫人の最後のご返事が「また来ます」というものだったという。
今生の別れは決して永遠の別れにあらずして、仏として生まれ変わる一つの契機。亡き人は私の上に仏として働きつづけていてくださる。

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