如月忌・九条武子夫人(はらから75号)

二月には如月(きさらぎ)という呼び名がある。二月七日は四三歳でその生涯を終えられた、本願寺二十二代門主、明如上人の妹で九条家に嫁がれた九条武子婦人の御命日であり、この日に西本願寺では如月忌(きさらぎき)と名づけて全国の仏教婦人が本山に会しての大きな法要が営まれている。
明治二十年、大谷家に生まれ二十二歳のとき、九条家に嫁がれた武子夫人は、恵まれた華族の生活を安穏とむさぼることなく、仏教の精神をバックボーンに仏教婦人会の全国組織化、社会福祉活動にその生涯をささげられた。
それまで尼講と呼ばれていた各地域各寺院の婦人の聞法の集まりを仏教婦人会と命名し、全国組織にまで育て上げ、また今の京都女子大学の前身である京都女子専門学校の設立に尽力された。
大正十二年九月一日、未曾有の大地震が関東平野を襲った。当時築地本願寺の一角に夫の九条良致(よしむね)氏と住まわれていた武子夫人は、自らも被災していながら、日本のボランティア活動の先鞭をつけたといわれる、救援活動にその身をささげて目覚しい活動をされた。九条武子夫人の著作で、大正時代の大ベストセラーとなった随筆集「無憂偈」(むゆうげ)の印税をなげうって、被災者救護施設を設立。後にそれが「あそか病院」となる。現在でも病院設立の基本理念に「病める人の母となり友となって、施療とともに精神的な安らぎを与えること」とある。
ただこの時のご苦労は確実に武子夫人の体を蝕んでいた。昭和三年二月七日、数え年四十三にしてその生涯を終えてゆかれた。
臨終の枕もとに駆けつけられた次兄の真宗木辺派の門跡である木辺孝慈師に最後の法話をお願いされた。
木辺師は「最早やこの世の人としてはお別れせねばなりませんが、どうぞお慈悲にすがって お浄土におまいりなされますように。次に起こすは、還相回向のはたらき、どうか再び娑婆世界に還って、弥陀大悲のおいわれをお伝へなされるやう」と法話をされた。
武子夫人の最後のご返事が「また来ます」というものだったという。
今生の別れは決して永遠の別れにあらずして、仏として生まれ変わる一つの契機。亡き人は私の上に仏として働きつづけていてくださる。

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