真宗教室

今日は真宗教室の例会日。16日の親鸞聖人のご命日が例会日だが、そらごと・たわごと日記でも書いたように、15・16日と横浜のご門徒の葬儀のため、1週間遅れで開催。6時半から坊守心づくしのご飯を皆で一緒に食べてから勤行・お勉強になるわけだが、今日は市内で門徒さんのお通夜と重なった。よって会員に調声(ちょうしょう=導師役)をお願いして私はお通夜へ。7時半に帰山したら丁度お勤めが終わったところ。バトンタッチして真宗宗歌を歌い、お勉強とあいなった。

今期(第6期)のテーマは仏説阿弥陀経。今日のメインテーマは倶会一処(くえいっしょ)。倶(とも)に一処(ひとところ)に会う世界としての浄土とは、人間世界の愛憎(好きか・嫌いか、憎いか・可愛いか、敵か・味方か)という自己愛から出た他者との会いかたではなく、まさにいのちと心が一つになる世界としてある。
その浄土を慕わしい世界として願う心(願生心)は、自己中心を一歩も抜け出る事の出来ない私などの心からおこったものなどであるはずがない。

浄土を慕わしい世界として仰ぐこころ、如来の分け隔てのない平等心こそ尊い心としてその前に頭を垂れてゆくこころは、実は向こうから(=浄土)から私に届けられたものであったとしらされる時に、同時に私の自己中心性が厳しく浮き彫りにされるのではないか等、私の領解を話させてもらった。

それにしても親鸞聖人の隠顕釈(おんけんしゃく)は、独りよがりの独断に過ぎないという批判もむべなるかなといいたくなるほどにあまりに大胆である。阿弥陀経の表面を読む限り、正定聚は浄土の菩薩の徳であり、臨終来迎はきっちりと説かれているではないか、仏語に虚妄なしとはあれは嘘か?

梯先生がよくおっしゃることを思い出す。「お経の底を流れる仏陀の真意を読み取る事の出来る方は、実はその人も悟ったお方なんだよ」と。

私には親鸞という方の全貌をつかむことはおろか、先生方のご指南なしではとてもとても他力真宗の思想の深みの一端すら、よう領解できなかったであろう。

門徒の皆さんとお勉強させてもらいながら、この私の愚かさもちゃんと想定内と見抜いてくださった、五劫思惟の如来様を思う。
五劫思惟の人間観察は、もらしてはならぬ、想定外ということがあってはならぬという力強い慈悲の顕現でもあったんですね。

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