日別アーカイブ: 2006 年 5 月 16 日

宗祖のご命日

本日は真宗教室。毎月親鸞聖人のご命日の16日を例会日としてのお勉強会。現在仏説阿弥陀経を読んでいるが、今日がその最終日。
極難信(しんずることが極めてむつかしい)の法として説かれた浄土の教説。
念仏という行は称えやすくたもちやすき行であってまさに易行(いぎょう 難行に対する)ではあっても、その行を浄土往生の行として信受(しんじゅ)することの難しさ。お正信偈に「難中之難無過斯」(難中の難 これに過ぎたるはなし)と説かれ、また浄土は「往き易く、而して(往く)人なし」と説かれた。

難の難たる所以は、ひとえにこちら人間の側の計らいの捨てがたさ=疑心の深さによる。浄土を分かろう・阿弥陀仏という仏様を分かろうとしてかかることからして人間の傲慢さのなせること。

日ごろ目を通している岐阜のご住職のブログに、先日拙寺にご出向いただいた○實○先生のお話を見事に要約して下さってある文章にであった。浄土はあるのか、ないのか。阿弥陀様という仏様は存在するのか、しないのかという、普通に考えれば人間にとっての至極当然の疑問。
でもお浄土とはあるのか、ないのかを問う世界ではないときっぱり。そりゃそうだ、仏教は有も無も邪見(よこしまな見解)として退けられる。お正信偈には龍樹菩薩は有無の邪見を破し、親鸞聖人も和讃に阿弥陀様の智慧の光明に触れるものは有無を離ると述べてある。仏教が私を導きたもう世界とは、自己中心の分別で分けて区別して世界を認識・理解したつもりになっている私の虚構を厳しく暴き、真実のありようを告げ知らしめて下さる。
つまるところ分からん(分けられない)話。分からん話は素直にそうですかと聞いておくより他はない。浄土宗の行者は愚者になりて往生する、あるいは浄土門の修行は愚痴にかえって極楽に生まれることだと言い切られた法然上人のお言葉が味わわれる。

そこで、そのブログを勝手にリンクしておきます。向こうのご住職には事後承諾という事で・・・・・・。
http://pochi21.exblog.jp/m2005-05-01/#2686522

来月から「御伝鈔」を輪読。

写真は今日のご飯。坊守も前坊守もがんばってくれています

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