格差社会

週刊新潮5月18日号、池田晶子氏のコラム「人間自身」。今号のタイトルは「大変な格差社会」
乱暴に論旨を自分なりにまとめると、お金を持つ人とそうでない人があるのは当然のことで、それを格差として問題であるとする(問題であると見たがる)人の心の中に格差は存在する。それを格差と見ない人には格差は存在しない。それよりも問題にすべきは人格・品格の格差ではないかと主張する。「金を価値とする卑しい品性と心を価値とする貴い品性と、どちらの格が上なのか」「社会的平等が人間の平等などと都合よく勘違いし、欲望を権利と、嫉妬を正義と、主張してはばからない賤しい品性が跋扈する」(「」内は原文のまま)と歯に衣着せず切って捨てる。

 綺麗な花があるのではない、花を見て綺麗だと感じることのできる人にとってのみ綺麗な花は存在するというのが仏教の基本的なものの見方である。
 経済的意味で持つ者とそうでないものとの違いは当然あるだろう。しかしそれを格差と見るのかどうかは個人の心性・感性に帰する問題であり、それを格差として問題であると見たがるところに嫉妬という浅ましい、賤しいものがうごめいていないか。そこに目をむけるとき、自分という人間が少しは見えてくるのではないか。

 政治家の政策の結果を擁護するにせよ批判するにせよ、宗教が問題にすべきはこの社会を構成する一人として自分の心がこの社会を作っていることを忘れてはならないということだろう。
かつて東本願寺の曽我量深師にまつわるエピソードとして聞いた話を思い出した。法話のあとの懇談会で質問があった。「正直者が馬鹿を見る社会はおかしいのではないか」という意見に対して「ほう、この会場に正直者がおられるのか、おられるのならお会いしたい」といわれたそうだ。

 自分を抜きにして社会を語れるはずがない。語れると錯覚した人が格差社会が問題だと言っているのだろう。問題にすべきは金の有る無しではない、「金持ちであろうがなかろうが賤しい人は賤しいし、貴い人は貴い」という女史の意見は真実である。
彼女はコラムをこう結ぶ。「金の多寡など僅差であるが、品格の差は雲泥である。あの人は下品階級の人だ、うんと人を差別的に見るようにしたい」と。
ちなみに、彼女は上品・下品を「じょうひん・げひん」と読まずに、仏教本来の読み方、すなわち「じょうぼん・げぼん」(人の資質の差を上・中・下に差別化した言い方)のルビをつけている。

 余計なお世話だろうが一言だけ言わせていただくなら、人の上品下品(じょうぼん・げぼん)を言う自分はどこにいるかという視点は持ちつづけたいと思う。

「そんなこと百も承知の上よ、だけどあんまりみんなが外にばかり格差をみて、自分をみつめようとしないものだからつい言ってみたくなったのよ」という彼女の声が聞こえそうではあるが。
(個人的に池田晶子女史のファンなもんですから、どうも贔屓目にみてしまいます)

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