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Jazz Bass

執筆者: senpuku (8:00 pm)
腰痛も癒えて、Bassを弾くのが苦痛でなくなったこともあり、ぼちぼちながらBassの練習を続けている。

自分のBassとの付き合いを振り返ると、殆ど我流。教則本を買ってシコシコと弾いて来た。今にして思えば、きちんと先生について正式なレッスンを受けていればということが悔やまれる。どんな分野でもそうだろうが、その道を辿った先人の苦労は、後に続くものにとっての大きな財産であろう。その財産を素直に引き継ぐことは安易な道を辿る事ではない。才能あるひとはその上で先人を越える前人未到の孤独な道を自分で築いてゆけばいい。

その意味で基礎・基本は絶対に、おろそかにしていいものではない。その基礎・基本のところでうろうろして、無用な苦労をして徒に時間ばかりかけて結局、あるレベルまで達するのに回り道をしすぎてきた事が悔やまれるのだ。

学問でもそれがいえないか。天才には師匠はいらないかも知れない。しかし普通の凡人には師匠と仰ぐ存在がなければ独り善がりの野狐禅に陥るのが関の山。
(ただし、前人未到の境地と野狐禅との違いを見極めることはこれはこれで難しいことではあるが)

自分は独善に陥っていないか、厳しいチェック機能としてはたらいてくださるもの、曲れるものをただしてくれる存在。それが師であり、仏教的に言えばそれが法であろう。

『二にいはく、篤く三宝を敬ふ。三宝とは仏・法・僧なり。すなはち四つの生れの終りの帰、万の国の極めの宗なり。いつの世、いづれの人か、この法を貴ばざらん。人はなはだ悪しきもの鮮(すくな)し、よく教ふるときはこれに従ふ。それ三宝に帰りまつらずは、なにをもつてか枉(まが)れるを直(ただ)さん。』

jazzBassの話から、十七条憲法に話が飛んでしまった。

【野狐禅 やこぜん】人をあざむきだます誤った禅。禅を少し学んだだけで自分では悟り切ったようなつもりの禅者を野狐にたとえていう。なまぜん。(大辞林)