バッハ

小林秀夫氏の批評文に「バッハ」がある。同じ小林秀夫氏の「モーツァルト」はあまりにも有名だが、この「バッハ」は好きで若い頃何度も読み返した。
突然「バッハ」を思い出すきっかけをあるご婦人が下さった。

本日午前中、その方は寺に相談に見えた。先日の「お説教とジャズ」に来て、拙寺を知ったと仰る。相談の内容はさて置くとして、話の途中で「結婚て何でしょうね?住職さんは結婚というものをどうお考えですか?」と問われた。
突然問われて、しばらく考えているとき、小林秀夫氏の「バッハ」の一節が脳裏に蘇った。
「恋愛とは結婚であり、相手を信頼し相手の幸福に責任を感ずる幸福に他ならない」というくだりである。この文章を口にしながら、自分の結婚観の軸にこの言葉の影響があることをあらためて思った。

小林氏の文章はさらに続く。
「そういう簡潔で充実した恋愛が失われてしまってからすでに久しい。近代文学は、人間性の名のもとに、恋愛について感傷と短気と獣性より他に書いた事はないのである。ドストエフスキーが、あれほど恋愛の地獄相ばかりに固執したのも、彼の独断や偏向から来たのではない。誰よりも健全だった人間の復習だったのである。」

若いときは、この「近代文学は、人間性の名のもとに、恋愛について感傷と短気と獣性より他に書いた事はないのである」の意味が分からなかった。しかし今は小林氏の言いたかった事はよく分かる。

彼の本ももう一度ゆっくり読み直してみたい。あまりに膨大で数冊しかかじらなかったドストエフスキーも。

あらためて考えた。思索する事が少なくなってしまったなと。考えるとは「計算」することではない。思索という言葉自信の使用頻度が少なくなってしまってると感じるのは私だけだろうか。言葉が使われなくなるということはその言葉の内実・概念が失われるという事に他なるまい。例えば、「かたじけない・あさましい」などもそうだ。「もったいない」は外国人に指摘されて息をふきかえしかけたが。

正確を期すために小林秀夫氏の「バッハ」の原文を記す。
「恋愛とは結婚であり、相手を信頼し自ら(相手の幸福に)責任を感ずる幸福に他ならない」

(相手の幸福に)の部分はは自分の思い込みだったのだが、しかし小林氏はそれでいいんだよときっと同意してくれるに違いないと確信する。

小林秀夫氏の「バッハ」は2ページほどの小論です。お読みになりたい方は、メールを下されば・・・・・。著作権法に引っかかるのかな。

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