麻原彰晃

最高裁での死刑判決が出た。腰を抜かした思い出をひとつ。

彼が逮捕されてから、事件の全容が明らかになりつつあるころ、当時本願寺の教学研究所に、嘱託・在籍していた、宗教哲学者(宗教評論家?)の山折○雄氏がいた。彼がこんな主張をしていることを宗門外の本で目にした。

「悪人正機を標榜する浄土真宗は、あの麻原彰晃は救われるのかどうかを、今こそ世にはっきりと答えるべきであると」(論旨はこうだったと思う)

自分の尊敬する師に研修会の席で、山折氏がこんなことをいっていますがと、その事を問うた。あっさりと師はこう答えられた。
「ああ、麻原さんね。勿論救われますよ」無論、師のお答えの中、麻原氏の廻心ということは抜いては語れないし、そのことは自明の事としてさておき、腰を抜かしたのは師が彼を「麻原さん」と「さん」づけで呼ばれたことだった。
その前も、その後も彼を「さん」づけで呼んだ人を自分は知らない。

一切衆生は如来の子、あるいは汝は我が子なりと呼びたもう親様であるとは常日頃お聞かせにあずかっているものの、我々はやはり犯罪を犯したものを断罪する。そして呼び捨てにする。

ここよりは自分の忖度(そんたく)である。

たとえどのような罪をおかしたとしても、その者も間違いなく如来の子であり、如来から悲しまれている存在であり、いづれ如来となるべきかたである。
一人の人間の思いとしては、決して許せるものではないが、救いとは、「私の思い」ではない。如来の悲願である。さすれば麻原氏も紛れもなく如来の子。私が呼び捨てにし、切り捨てていい存在ではないのだという、師のある意味すさまじいまでの如来への信順のお心を知らせていただいた。

「ああ、麻原さんね。勿論救われますよ」

耳の底に残る、11年前の師のあの言葉を思い出しながら死刑判決のニュースを聞いた。私にかかわり果てておられるごとく、紛れもなく如来さまは麻原さんにもかかりっきりでいらっしゃる。十方衆生をもれなく救うとのお誓いは、徒設ではない。

※徒設 (とせつ)  いたずらに、実効なく設けられたもの。

ところで、この文章を入力しながら気づいたこと。
 麻原の苗字はともかく、彰晃(しょうこう)という名前が変換候補にあったことが意外だった。無論自分で単語登録した覚えはない。皆さんの変換候補の中にもありますか?

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