日別アーカイブ: 2006 年 9 月 23 日

真宗教室

朝から報恩講廻り。午後隣寺の報恩講法要に出仕。その後また一軒報恩講廻り。

夜真宗教室。本来なら16日が例会日だが、その日は研修旅行で高山へいったので、一週間遅れの例会。今取り組んでいるのが「御伝鈔」
本日は第三段。親鸞聖人が六角堂参篭され、観音菩薩の夢告を受けられた段。
こうしてじっくりと皆さんとお聖教を読む中で今まで気づかなかったこと、誤解していた事などに気づかされることがある。

本日の収穫
少し永くなるが引用する。

大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり
これしかしながら聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案をかまへず、かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。

 しかし‐ながら【然し乍ら・併し乍ら】
    (1)そのまま。さながら。ことごとく。一切。
    (2)要するに。結局。
    (3)「しかし」のやや格式ばった言い方。
        「デザインはよろしい。―技術面に不満が残る」『広辞苑』

今日の今日まで、(3)番目の意味だとばかり思って読んできた。しかしここの場合、意味は(1)番目、すなわち、「ことごとく」「一切」の意だと知った。

真宗がこれによって興り念仏がひろまるのも、これすべて悟りを開かれた聖者のご教化のたまものであって・・・・・・
  という意味になる。   今日の今日まで間違っていたわけだ。

   お聖教は「しかしながら」じっくりと読まれねばならないとあらためて思った。

   

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