自分に忠実であるという事

昨日の『父親』読了。
不仲になり妻と別居中とはいえ、妻子ある男と恋愛関係に落ちた娘に対し、父はかたくなに「けじめ」というもの守ろうとする。
「彼から(父)みれば純子(娘)もまた自分の情熱だけを大事にして、その情熱が周りのものにどんな悲しみや苦しみを与えるか、まったく想像していなかった」と考えるがゆえに、娘をも厳しくしかりその結婚を認めようとはしない。

自分に素直に、自分の心に誠実にという風潮はこの小説が書かれたころより、今ははるかに強くなっている。
言葉は綺麗かもしれないが、ようするにそれは「わがまま」の言い換えに過ぎまいと思う。
その我がままを離れられたら問題はなかろうが、この自己中心性を棄てられないのが人間なのだろう。この自己中心性に歯止めをかけるもの、ブレーキとなるのが、他者の悲しみ、痛みに思いを馳せる事のできるだと遠藤氏は言いたいのではないかと自分は読んだ。

ただ、自己の想念・情熱に翻弄されながら苦悩する娘にたいして、
「にもかかわらず、彼(父)は今、一人ぼっちになった純子(娘)を父として慰めたかった。何と言っても彼女は彼のかけがえのない娘だった」と小説は結びへと向かう。
慈悲というものをこうした形で文章化し、読むものの心に刻むことのできる作業はさすが作家である。

  以前のブログに書いたことだが、行信教校を創立された利井鮮妙和上の
  歌を思い出したので記し置く。

  

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