智慧ということ

終日、10日の誠照寺ご本山での講座「正信偈に学ぶ」の準備。レジュメは出来たものの、しかし内容そのものはいくら準備してもカバーできるものではない。

複数冊の講義録・法話など目を通すのだが、如何せん、読む先から忘れてしまう。頭に入っていないのである。脳の老化の著しさを痛切に感じる。(これは謙遜でも、また言い訳でもない)

本当に年を重ねなければ分からないことがあることをしみじみと感じる。本音を言えば、こんなことは分かりたくなかったことだが、つまり認めたくない現実ではあるが、これもわが身の事実として引き受けねばならない。こうした衰えを通常はマイナス(=負)の要素であると我々の分別は捉える。しかし我が分別はマイナスとしか受け止められない事柄にも意味があるのだろう。その意味に眼を見開かれることが智慧がひらけるということに他なるまい。

遠藤周作氏がかつて、忘れるから老後の人生は楽しいといっていた事を思い出す。若いとき見て、あれほど感動した映画や小説も読み返してみて忘れている事の如何に多いことか、しかし忘れてしまっているから、新鮮にあらたな感動をもって読み、観ることができると。

梯和上の法話でも同じようなことをお聞かせいただいたことがある。
「≪いくら聞いても聞いても忘れてしまいましてな≫とくどき嘆かれる方がおられますが、忘れてしまう事を苦にするのではなく、また新しく聞かせてもらう事を楽しみにさせてもらいましょう」と。

こんな表現に対して、「要するに気の持ちようですね」とあっさり仰る方がある。しかし気の持ちようというような軽薄なものではあるまい。それは負(マイナス)にも意味を見出す智慧が開けたことを意味するのである。そしてその智慧は私の分別はそうとしか受け止められないであろう究極のマイナスであるところの「死」にも意味あたえるものである。
しかもその智慧は、私の中から出てくるものではない。

「気の持ちよう」で自分の死が引き受けられるはずがないではないか。

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