立川談志師匠

録画しておいたNHKハイビジョン特集「立川談志 71歳の反逆児」を観る。見ごたえのある番組だった。語るという生業の世界に身をおくことの厳しさを見事に表現した番組だ。しかしこの厳しさは談志師匠が自らに課した厳しさに他ならない。彼に言わせれば落語だけやりたいのなら、他の師匠のところへ行けと弟子に対してにべもない。伝統芸として講談・踊り・小唄・都都逸など落語の演目のレパートリー以外にこうした芸を身につけることを弟子は要求される。

談志師匠の勉強の跡を垣間見ることができる場面があった。
ウーン、これほどの迫力をもって自分は勉強してきたか?無論向こうは天才、こちらは凡人。
天才とは努力を発明する才能であると言う言葉を小林秀雄が書いていたことを思い出した。努力は誰でもする。しかし努力しなくても容易にそのことが実現できると見たら、我々凡人は努力しない。凡人が容易とみるところに努力の必要性を見抜き(=発明)実際努力するのが天才だというのだ。

天才どころではない、一人の凡夫でしかないゆえにその私を救わずには置かないと誓われた阿弥陀様のお慈悲に甘えさせていただかねば私の居場所はない。しかし安住しようとする事を自分に許せない天才の苦悩を見た思いがする。
「老いるという事、死ぬということ」が談志師匠の今の一番の課題なのであろうか。「落語は人間の業の肯定である」という談志師匠自身の言葉が紹介された。そして本人が今そのことでもがいている。
「何が業の肯定だ、それならこれも(老い)も肯定の中に入れればいいじゃないか、こんなことを言う自分は弱いのかな」と。

自分が自分を甘やかす事が許せないのなら、絶対の他者に許してもらうことのできる世界があるんですよ、とテレビを見ながらつぶやいた。

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