日別アーカイブ: 2007 年 5 月 12 日

身内の法事

午後、外に嫁いで亡くなった従姉妹の七回忌を勤めた。残されたご主人、息子夫婦と孫、それに娘さんが遺族として参列。その他親戚数名。
法要のあと、自分に法話をするよう依頼があったのでしばらくお取次ぎをした。父に聞いた従姉妹の最後は、病院のスタッフに最後まで精一杯の看護・治療をしていただいたことへの丁寧にお礼をして「先に参らせていただきます」というものだったという。病院スタッフもその態度に心打たれたそうだ。

お浄土があってよかった、また会える世界があってよかった。正に倶会一処の再会を期してまたお会いさせていただきますと言い切れる世界のあることが、別離の悲しみに涙するものにとってこの上もない支えとなり、励ましとなりまた慰めとなってくださることはこのいのちの帰る世界としてのお浄土を知らせてもらった者が等しく味わわせていただける利益ではあろう。
しかし同時に一味平等の世界に帰るということの厳しさを忘れてはなるまい。すなわち娑婆の愛憎を持ち込めない世界であるということ。
恩師がよく言われることに、浄土の救いは泥鰌すくいや金魚救いとは違うというものがある。泥水(娑婆世界)から澄んだ水に泥鰌を、金魚を救い上げても、ただ住む場所が違うというだけのこと。泥鰌も金魚藻何一つ変わっていないではないか。浄土に生まれるに相応しい徳を与えて救うといわれる阿弥陀様のはたらきのうちに、愛憎に振り回されてしか生きられない己を恥じ慚愧し、しかしその自分が如来様と同じ徳を持つものに仕上げられてゆくということへのかたじけなさを仰ぐことが欠落したら、お浄土は単なる娑婆の延長に過ぎないものでしかない。

死ぬまで煩悩を燃やしつづけてしか生きられない己ではあるが、死んでから先までその煩悩から来る愛憎を持ち込めないというクサビが一本この体に打ち込まれた。

これまた恩師のよく言われること、「同じ死ぬまで好き嫌いを言いながらしか生きられないとしても、死んでもこの恨みは忘れるものかではなく、死んだら忘れるぞ」(愛憎に振り回されるのはこの娑婆で打ち止め!)というお言葉を紹介して法話を終えさせていただいた。

そのあと、O家の満中陰。夜門徒会館での通夜に出仕。
よる、BSハイビジョンでバレンボイムの演奏を見る。

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