日別アーカイブ: 2007 年 6 月 1 日

電光朝露のいのち(はらから79号)

りんどうホ―ルが建って丁度十年になった。振り返ればもう十年かという思いを禁じえない。竹内まりやという歌手の「人生の扉」という新曲が出た。歌詞の一節に「信じられない速さで時は過ぎ去ると知ってしまったらどんな小さなことも覚えていたい」と五十路に入った彼女は歌う。
時は年とともに加速度的に早く過ぎるとは誰しもいうことだが、わが身をもってそれを感じ取れるまでにはそれ相応の時の流れを経験しなければならない。
何度も「はらから」で紹介した、平成二年、五十歳でその人生を終えられた富山の先輩住職のご子息の仲人をこの六月、勤めさせていただいた。当時高校生だった彼が今花嫁を迎える、その晴れがましい席に連なりながら、十七年前の葬儀のとき、涙と必死に格闘しながら喪主の挨拶をしていた彼の姿が思い起こされた。そしてご住職亡きあと、由緒あるお寺の法灯を絶やすことなく灯しつづけてこられた坊守様の十七年を思い、仲人の挨拶も途切れがちになってしまった。
先輩の口癖が「あえてよかった」であった。思えば、私が今こうしていのち賜り生かされてある事自身が、まさに稀なご縁の賜物以外のなにものでもない。そしてそれはすべてのいのち、すべての存在に共通する事実である。自らのいのちの不思議さに思いを致す事ができるようになったとき初めて、人は他者にもその眼差しを注ぐことの尊さを知る。
その眼差しの温かさを尊さを私達は阿弥陀様の大悲の智慧によって知らされた。自分の上に注がれつづけてあったその眼差しを知らされそれに気づくとき、同じ眼差しがすべてのいのちに注がれていたことを知る。
電光朝露(でんこうちょうろ)のいのちと仏教は説く。いなずまや、あさつゆのように人生ははかないという。人生は決して長くはない。しかしそれは決して単なる悲観論ではない。電光朝露のいのちであればこそ、その一瞬のきらめきにもにたいのちをいとおしむように大切に想いつづけていてくださる如来様のお慈悲を喜ばしていただこう。
同時に私はそのお慈悲を頂いたものとして相応しい生き方をしているだろうかという申し訳なさも思う。
「尊いいのち」とは言葉としては誰もが知っている。しかし他人どころか、肉親すらそして自らのいのちをも傷つける風潮に満ちた世相を思うとき、私自身は自分のいのちのかけがえのなさに出遇っているか、遠回りであっても一人一人がそれを問い、それに気づくところからしか道は開けないと思う。 住職

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宇奈月にて

本日富山は宇奈月温泉に来ました。長いお付き合いのお寺の若住職の結婚の仲人役。(このホームページの概要を作ってくれた本人)
宇奈月温泉に泊めていただいて、トロッコ電車の駅を右手に見る絶好のシチュエーション。緑が本当に目にまぶしい。

明日午後からの式・披露宴。亡き先輩のことを思い出しつつ(新郎のご父君)二人の紹介をするわけだが、もう今から緊張やらなんやらで、心臓はどきどき。

原稿を書いてあるので、それを読めばいいのだが、先輩亡き後の奥様をはじめとするご家族のことを考えると、自分がウルウルときてしまいそう。

ま、いずれにせよ、「あえてよかった」と喜べる披露宴になるであろうことは間違いなし。

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