親の願い(はらから80号)

2007/10/01

子供に対して、孫に対してその人生の健やかならんことを願わない親はないだろう。病に苦しみ悩み、経済的に苦労し、人間関係で神経をすり減らす人生を送って欲しいなどと願うはずもない。
しかし、自分の人生がそうであったように、子供の人生にも孫の人生にも必ずそうした苦悩と苦労はついてまわることはさけられまい。なぜなら一人一人が別人格であり、その人にしか生きられない命だからである。まさに「独生・独死・独去・独来=独り生れ独り死し、独り去り独り来る。~みづからこれをうくるに、代るものあることなし」。あるいは「独り来り独り去り、ひとりも随ふものなし」(いずれも仏説無量寿経の言葉)である。親といえども子供の人生に代わることは出来ない。
後に続くものに対してぎりぎりのところで親は何を願うのだろうか。
それは、たとえ苦悩の人生ではあっても、そのことで自分の人生をつまらないモノのように見なしたり、自暴自棄になり、自らのいのちを放棄することなく、逆境に立たされたとしても、その中から、涙を流しながらでもいい、溜め息つくこともあろう、しかしそのいのちを心豊かに全うして欲しいというものではなかろうか。
うまい世渡りをするために、不都合なことが自分の人生に起こりませんようにと神仏に祈る、すなわち自分の欲望・願望充足のために宗教があるという宗教理解が圧倒的に多いのが現実である。その中にあり、真実の宗教とは自己の欲望充足の手段、道具ではないと親鸞聖人はきっぱりと宣言された。
私以上に私の事を案じてくださってある方の願い、その心を素直に受け止めさせていただくとき、真実を持ち合わせていない自分に気づかされる。自分の欲望、煩悩に振り回され、その挙句が虚しくこのいのちを終わってゆかねばならなかったかもしれないいのちに、しかしぴったりと寄り添って下さる願いがあった。
自己の虚偽性、煩悩性に気づかされるとき、それに気づかしめて下さった働きそのものが同時に私を真実なる方向に向かわしめる働きでもある。私のいのちを虚しく終わらせてはならないという願いこそ真実の親の願いでもあろう。
繰り返す。宗教とは、自己の欲望充足の手段や道具ではない。
自分にかけられたその願いにうなづく事が出来たのも私の力量ゆえではなく、願いそのものの持つ力のお陰である。護られるとは、苦悩の中にあってその苦悩すら私の人生に意味を与える大切な縁であることに気づかされる智慧が恵まれることにほかならない。
その智慧を通して見る世界は、苦悩や悲しみに満ちた世界ではあっても、しかし大切な尊い、そしてありがたい世界である。 住職

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