悲しみに寄り添う(はらから82号)

東京は秋葉原で、無差別殺人事件が発生した。岩手・宮城では地震による被害が報じられている。報道に接する中で、前者のおぞましさ、また後者の痛ましさに、被害者とそのご家族の悲しみに思いをはせつつも、しかし厳然と、自分が自分の家族が被害者でなくてよかったという思いが心のどこかに潜んでいる自分にきづき愕然とする。
他者の痛みを、我が痛みと受け止めるとは、口でいうほど容易なことではない。いやそれどころか人間にとっては不可能なことなのだろう。
誰しも自己中心のモノの考え方は良くないこととは言う。しかし、本当に人間は自己中心を離れられるのか厳密に問うとき、残念ながら人は自分を中心にしてしかものを考えられないことに気づくだろう。
ものを考えるとは、言葉に拠り、アレかコレかと分別する(分けて区別して考える)ことである。しかしながら、この言葉が自分を中心に出来上がっていることに気づく人は少ない。
こことは自分がいるところを指し、私とはあなたではないここにいる私を指す。当たり前ではないかと言うかもしれないが、その自分を中心に構成された虚構の世界を見て、人間を世界を理解したつもりでいるのがこの私である。
そこでは、家族を失い涙に暮れる当事者としての悲しみは、どこまでも私の悲しみではなく、その人の悲しみでしかない。そこには他者の悲しみを共に我が事のように痛む心はおろか、自分が当事者でなくてよかったという、冷淡な思いさえ見え隠れする。いや見え隠れするというより、そこに居直ってさえしまいかねないような自分である。
同悲同苦(どうひ・どうく)という言葉がある。釈尊が到達されたお悟りとは、自他の分別を超えて、他者の痛み悲しみを我がこととして共感できる境地とお聞かせいただいた。
仏教徒とはその仏陀の境地をもっとも尊ぶべき世界と仰ぐがゆえに、そのお心に頭をたれてゆく人のことである。
そのお心を仰げば仰ぐほど、自己中心を離れられないこのわが身の限界が知らされる。またおぼろげながらではあってもそれを痛み慚愧する心も。
悲しみや苦悩に寄り添う心が仏様のお心なら、私が歩むこのお浄土への道は仏様へと私を育ててくださる道でもある。
苦悩と悲しみがある限りどこまでもどこまでもそれに寄り添い救い遂げようというはたらきそのものと成られた南無阿弥陀仏の仏様を慕い歩む道である。
己の人間なるが故の限界を見据えつつ、しかし仏様の同悲同苦のお心に聞き触れながら、そのお心に育てられながら、他者の悲しみに寄り添う道をおぼつかなくとも歩む人生を生きたいと思う。 住職

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