凶悪犯罪

東京は秋葉原でとんでもない凶悪事件が起きた。
事件のあらまし、背景については、今後マスコミがこれでもかこれでもかとセンセーショナルに取り上げるのだろう。

犯人に同情の余地はないのは論を待たないが、被害者とそのご遺族に対して救いとなる言葉を我々は持ち得ない。どこまでいっても、事件それ自身は私の問題ではありえないからだ。正直に申し上げるなら、お気の毒にとは思えても、私が代わってあげたかったとは少なくとも私には思えない。自分でなくて良かった、自分の家族でなくてよかったという思いを確実にどこかに抱えている自分に気づくとき、どこまでも自己中心の想念から一歩も出られない自分でしかないことを思い知らされる。

それにしてもマスコミの罪の大きさを思う。(殺す相手は)「誰でも良かった」という犯人の告白は、マスコミを通じて伝染したおぞましい心理ではないかと思うのは自分ひとりだろうか。そして、こうした凶悪犯罪が日常茶飯事のように頻発する日本になってしまったことを嘆くコメンテーターと私達ががいる。

この時期に非常識で、不適切だというお叱りを頂くかもしれないが、しかし明らかに日本における殺人事件等の凶悪犯罪は減りつつある。
「犯罪白書」で検索されるなら、数字がそれを証明していることはおわかりいただけるだろう。マスコミの撒き散らす報道に対する受け止める側の姿勢が問われる。

その点を踏まえた上で
被害者とそのご家族、そして犯人のご家族、それぞれが誰にも代わってもらえない悲しみと絶望の中におられることに対して、おかけする言葉を持ち合わせない自分がいる。まことに申し訳ないがその悲しみを私は同じ深みをもって同じ悲しみとして受け止められない。ただ同悲・同苦の南無阿弥陀仏の親様がその涙を等しくわが涙とお引き受けである。私にできるのは、そのお心を仰ぎ、お念仏申させていただくばかり。

しかしながら平等の大慈悲を仰ぐとき、全く同じ苦悩を、悲しみを共有できない煩悩の自己の限界を見据えながらも、せめてその悲しみに寄り添う方向にこの心が向けらられるというお育てにあずかるのではないか。

路上でそのいのちを奪われた東京○術大学の女性のいることに家人が気づき、同じ大学に在学する鹿児島の甥のことを口にした。
携帯で連絡を入れると、「叔父ちゃん、そうなんです。同じゼミの同級生です。どう受け止めていいのか、自分もクラスメートの仲間も戸惑うばかりです」と。
彼の上にも、彼のクラスメートの上にも阿弥陀様の願いは及んでいる。

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