御通夜

車で少しばかり遠出をした。腰をかばいつつの運転だったが、なんとか無事に帰りついた。夜、会館で通夜。高田派のご門徒である。お手次ぎのご住職の通夜勤行の前に阿弥陀経のお勤めをさせていただく。

最近の傾向だが、お通夜にお勤めの声が聞こえない。つまり、声を出してお勤めしているのは、お寺さんだけ。福井市でも在所ではそんなことはないのだが、お勤めできる人が少なくなっている、あるいは周りがお勤めされないので、自分だけ浮いてしまいそうで遠慮しておられる?など理由はいくつかかんがえられるのだが、それ以上に残念なのは、お勤めの最中におしゃべりする人が本当におおくなったこと。

今までの通夜で何回か、お勤めを中断して注意したことがあったがこんなことは数年前までは考えられなかったこと。りんどうホールでの通夜には最近は聖典をお配りして一緒にお勤めしてもらうようにしているのだが、それでも今日はお勤めの最中のガヤガヤ、ペチャクチャがうるさかった。
御文章拝読の段になって後ろを向いての拝読の最中視界に、足を組んで後ろの席の人とおしゃべりをやめない(しかもかなり大きな声で)人の姿がチラッと見えた。

お悔みに来たのか、知り合いのひととおしゃべりに来たのかといいたくなるような光景が最近の通夜では多すぎる。しかもそれがいい年をした中年以上の人の様態。(これは男女を問わず)
せめてお一人の方がその方にしか生きられない生を生き、その方にしか引き受けられない死を引き受けてその人生を完結されたという厳粛な事実の前に気持ちの襟を正して参列するという姿勢を見失ったら、通夜、葬儀は何のために営むのかということになるのだろう。
葬式仏教と批判するのは結構。しかしその葬式を本当に厳粛な営みとするかどうかは、僧侶だけの責任ではないことだけははっきりしている。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 パーマリンク

コメントを残す