葬儀に想う(はらから83号)

 

近年の傾向として、街中のセレモニーホールではお通夜に参列しておられる方のお勤めの声が聞かれなくなった。無論、会場によっては、ホール一杯に響き渡るお正信偈を一緒に勤めさせていただくこともあるが、おしなべて声を出してお勤めしているのは、お寺さんだけという通夜が少なくない。
考えられる理由は、第一にお正信偈をお勤めできる人が少なくなったということだろうか。さらにお勤めができる方でも周りの人がお勤めされない中で自分ひとりが聖典を出してお勤めをすることを遠慮されているということもあるだろう。
蓮如上人が吉崎御坊に本願寺を構えられ、真宗門徒の日常勤行をお正信偈と定められて以来、五百年以上にわたってわれわれ真宗門徒は喜びにつけ悲しみにつけお正信偈の唱和のうちに、真宗門徒としての誇りと自覚を確認してきた。その伝統がわずかこの数十年の社会の変化の中で消えてしまうのではという危機感を感じさせられるのが、先述したようなお通夜の現況である。
そしてそれに輪をかけて残念に思うことがある。お勤めの最中にもおしゃべりをやめない人が本当に多くなったということ。
実は今までの通夜で何回か、お勤めを中断して注意したことさえあったがこんなことは十年前までは考えられなかったことである。門徒会館りんどうホールでの通夜には聖典をお配りして一緒にお勤めしてもらうようにしているのだが、それでも昨今の通夜はお勤めの最中のガヤガヤ、ペチャクチャが止まない。
先日のお通夜でこんなシーンすらあった。御文章拝読の段になって葬儀壇を横に向き直っての拝読の最中、視界に、足を組んだまま後ろの席の人とおしゃべりをやめない(しかもかなり大きな声で)人の姿が入ってきた。
お悔みに来たのか、知り合いのひととおしゃべりに来たのかといいたくなるような光景が最近の通夜では多すぎる。しかもそれがいい年をした中年以上の人の様態。(これは男女を問わず)
あらためて葬儀とは何だろうと考えずにはいられない。
故人はその方にしか生きられない生を生き、その方にしか引き受けられない死を引き受けてその人生を完結された。代わりのきかないいのちが掛け替えのないいのちという意味である。同様に死も代わりがきかない。ということは死も掛け替えがないということである。亡き人は無言ではあるが、その生と死の掛け替えのなさを自らの臨終を通して残された私たちに教えてくださってある。
このいのちの厳粛なる事実のうちに故人に対して、「本当にご苦労さまでした」と頭をたれ、気持ちの襟を正して参列するという姿勢を見失ったら、通夜、葬儀は何のために営むのかということになるのだろう。
その葬式を本来の厳粛な営みとするかどうかは、僧侶だけの努力で何とかなるものではない。参列される方の意識一つにかかっていることだけははっきりしている。 住職

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