日別アーカイブ: 2009 年 4 月 1 日

生を拝む死を拝む(はらから84号)

「かけがえのないいのち」とは、誰しも口にする言葉です。かけがえがないとは文字通り、掛けかえようにも替りがないということに他なりません。
道具や、物はそれの果たしている役割からするならその代わりをするものは存在します。そして人の場合も役職や肩書きたとえば副大統領とか、副社長、あるいは副会長など、副という役職があるということ自体がその役職の代わりを務める人が存在するということをあらわしています。
しかしいのちそのものに関して言うならいのちの代わりはありません。私のいのちの代わりを果たしてくれる人はいないのです。これがいのちの特徴なのです。
その意味で、かけがえのないいのちとは皆さんの共感を得やすいことばであります。そしてかけがえのないいのちとして、自分のいのちはもちろんのこと、他の人のいのち、他の生き物のいのちの上にも同じように拝むような思いを注いでゆくことの大切さはいうまでもありません。
しかし、いのちを拝むような思いで生きることの大切さは受け入れられても、死についてはどうでしょう。
生きることがかけがえがないなら、死ぬこともかけがえがありません。私に代わって生きてくれる人がいないように、代わって死んでくれる人もないからです。
私たちは生きる方には共感しても死ぬということに関しては最初から拒否反応を示すようです。自分にとって都合のいいことは受け入れるが、都合の悪いことは拒否するという習性はまさに煩悩そのものなのでしょう。
生と死を平等に見通す仏様のさとりの智恵は、今の私には受け入れがたい不都合な事柄の中にも意味を見出しそれを引き受けられる力となって私の上に展開します。
阿弥陀様は臨終を「死ぬこと」と思うのではなく、「さとりの領域へ生まれてゆくことだと思え」と願っていてくださるのでした。それが「わたしの国に生まれるのだと思っておくれ、もし生まれしめることができなかったら私は仏とはならない」という阿弥陀様の本意の願となって(本願)私に届けられました。その願いを聞き受けることを信と呼ぶのです。
生きることはありがたい、そして死ぬこともむなしく滅びてゆくことではなかったというまさに生死を超える世界が信心の智恵を通して私の上に実現されるのです。      住職

カテゴリー: 寺便り『はらから』巻頭法話 | 2件のコメント