脳死

脳死法案が衆議院を通過した。脳死そのものについての理解が「脳死を人の死」とすることを認めた平成9年10月のいわゆる「臓器移植法」成立の頃と比べても国民の間で進んだのかどうか危ういものだと自分は感じている。

なぜ脳死判定基準が見直される必要があったのか、の理由については日本の臓器移植希望者は自国で臓器提供を受けるべきで、外国に頼るべきではないとの諸外国からの批判があったことによる。

いみじくも平成9年成立の法案が「臓器移植法」と呼ばれるように、脳死判定は臓器移植と密接につながっている。本来なら脳死判定の問題は、臓器移植と切り離して考えられるべき問題だと思うが、不謹慎の譏りをうけることを覚語でいうなら、臓器移植がいわゆる「イキのいい臓器」に頼っている事実からして、不可分の領域、すなわち心臓は動いていても脳死と判定されたなら「生きている人」ではないから臓器を取り出しても殺人行為にはあたらないことを認めるべきであるという主張であろう。

かつて立花隆氏の著書「脳死」あるいは柳田邦夫氏のご子息にかんする著作等読んで脳死ということ理解しようと務めた覚えがある。また臓器移植の倫理的な諸問題にも関心をもって文献等を読み漁った。

面白いとおもった事の一つに、臓器移植反対派の主張にこういうものがあった。臓器移植推進派の人(主にドクター)たちは、脳死とは人間の情の問題ではなく、(すなわち反応こそないがまだ体温があり顔もつやつやしていてとても死んだ人とは思えないという人間の持つ感情がそれを認めたくないということ)冷静に見ればそれは科学的にも死とみなされる状況におかれていることだと言いながら、臓器移植を進める上では、症例(移植を待つ患者さんたちの、特に子供)を挙げながらこういう人たちをみすみす見殺しにしていいのかと情に訴えてくるという、ある意味巧みなあるいはずるい手法をとっている、というものである。

ある和上が仰ったことを今思い出している。和上曰く

《科学・科学と科学を金科玉条のごとくに言うでない。人間は科学で生きているわけじゃない。科学の粋をこらした宇宙ロケットに長期滞在する宇宙飛行士の心の中を占拠しているのは、わが子であり、わが妻であり(付け加えて、その妻が浮気しておりゃせんかと心配している一人の亭主  笑)、決して科学ではない》と。

脳死判定基準の見直しによって助かることを喜ぶのも情なら、脳死状態のわが子の成長を見守るのも情。いずれも人間のいとなみであり、人間の営みである限りそれは煩悩の営みであるということだけはきっちりと押さえておかねばなるまいと思う。

そういえば、子供の脳死は大人と違って長期脳死状態が少なくない、すなわち厳密な脳死判定を経てもまもなくいわゆる心停止を伴う死にいたらずに何年も生き続ける?(=心臓は動き続ける)ことも今回の法案騒ぎのなかでいろいろ調べてゆくうちに知ったことの一つである。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 パーマリンク

コメントを残す