日別アーカイブ: 2009 年 10 月 1 日

十月に突入

十月に入った。衣替えである。以前と違い、10月といえどもそれなりに涼しいわけではない。夏の衣のまま報恩講廻りを勤めようかとも思ったが、ちゃんと坊守が布袍(ふほう=略衣)、黒衣(こくえ=裾のついた正式な黒色の衣)を用意してくれてあったので冬用のそれに衣替え。

やはり暑かった。お勤めしながら肌着も頭も汗をかきかき。午前中のS家。F新聞の販売代理店を経営しておられる。来年の3月、五木寛之氏を迎えての750回大遠忌法要にF新聞の後援をもらいたい旨の相談をする。後援はたやすくもらえるだろうが、ライバル新聞の後援と重なるとどちらかが辞退するのが通例だそうで、これは困った。

「まあ、お寺さんの行事ですから、会社の上のほうも(上層部)そんなにこだわらないかも知れません。問い合わせておきましょう」と言ってくださる。できることなら地元の2紙とも後援を是非いただきたいと思う。

朝晩はそれなりにめっきり涼しいのだが、日中は眩しいほどの秋晴れの中、ぐんぐんと気温が上がる。車は相変わらずアイドリング時にシャクあげている。

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人生の重心 いのちの重心(はらから86号)

何かしっくりしない違和感を感じながら、さて反論しようにも自分なりの言葉で表現できない思いというものがある。かつての自分にとって、「自分の心に素直になる」「自分の心に誠実になる」という、いかにも現代人が飛びつきそうな言い回しがそれであった。

何を大切にしてこの人生を生きるのかという問いに対して、要するに自分のこころを大切にするという一つの生き方の姿勢を示す表現ではあろう。しかし果たして自分のこころに素直になることが、自分のこころに誠実になることが私の人生そのものを根底から支え、実りゆたかないのちたらしめることになるのであろうか。

素直になるべき対象、誠実たるべき対象のその「私のこころ」とはいかなるものであるかを問うことなく、耳に心地よい言葉に酔わされていないか。

これに対して親鸞聖人は「真実」という言葉を、この私の生と死を根源から支え、真にこころ豊かにこのいのちを充実せしめるはたらきそのものとして捉えられた。そしてそれは、私という人間のうちに真実はないと厳しく自己を見つめられたことへと展開してゆく。なぜなら、私の「こころ」は、どんなに立派なことを言おうが行おうが、どこまで行っても結局自己中心の思いを一歩も離れることのできないものであると気づかされたからである。

そのときどきの都合、状況いかんで私のこころは 正反対のことを平気で思う。そのころころ変わる自分のこころを見据えることなくして、自分のこころに素直になどという甘言に酔ってきたのがわれわれではなかったか。そしてそれは宗教(=変わらぬもの)を自分の人生の重心におくことを放棄して、自分のこころをそこに置き換えたということを意味する。

私たちのお念仏の先輩は人間のこころの頼りなさ危うさをしっかと見抜いていた。人間の心ほどたよりにならないものはないと。では何をたよりとすべきなのか。それはころころ変わる私のこころを大切にするのではなく(振り回されるのではなく)、変わることなくこの私を私以上に大切に思い続けていてくださる方を大切に仰ぐことにつきる。仏様を大切に思うこころはわたしのこころではない。私のこころの中に仏様を大切に思うこころなどありはしない。仏様を大切に思い、その願いに頭をたれるこころは、仏様から私に届けられた、これこそ仏心に他ならない。

人間のこころとは倦怠(けんたい)の別名ではなかったか。如来様の大悲のみが無倦のこころ。この如来様のこころこそ真に仰ぐべきものと頭を垂れてゆく人を仏教徒といいそのとき本尊という言葉の意味が明らかになる。 住職

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