形とこころ

関東圏で都市開教に従事しておられる西原祐治氏の、「仏教を楽しむ」というブログ愛読している。本日の「キサー・ゴータミーの新解釈」に思わず、ひざをたたいて、「うん、そうだ」と激しく同意した。詳しくはリンク先をお読みいただくとして、自分が思ったのは、人間の営みとはつまるところすべて〔表現〕という行為に収斂されるのではないかということ。

悲しみ、苦悩、そうしたもろもろの感情を、言葉という表現媒体に置き換えることによって悲しみは、苦悩は、整理されながらそのこと自体によって当人の自己洞察はいよいよ深められてゆく。洞察が深まることによって自己のおかれた状況が知らされ(=見えてくる)、いつしか自分の思いに自分ががんじがらめになっていたことへの気付きとそこからの解放がおのずと自己の上に訪れてくる。

言葉にすれば以上のようなことになるのではないかと思うが、しかし当然そこにはもだえるほどの苦悩、悲しみやあるいは絶望もついてまわることは言うまでもない。

さらに思ったことは、葬儀等の儀式もあきらかにこの悲しみや苦悩を葬儀儀礼という表現形式に託すことによってけじめをつける、あるいはケリをつけるという使命を担ってきたのだろう。

心さえあれば形は二の次ですよと人は言う。あれが一番の世迷いごとであることに気付くにはそれなりの自己という人間そのものへの洞察がなければなるまい。形に託す、形に表すことによってしかこころは伝わらない。

かつて、小林秀雄の『本居宣長』だったか、形を真似するのは簡単だ、その点こころをまねることこそ難しいという人に、それは違うと厳しく指摘した文章に出会ったことがあった。当時は全く理解できなかったが、形こそ大事で形をまねることこそが難事だということの意味が今ならわかる。

人間の営みは表現に収斂されると先に述べたが、ただし、一度先に表現された形式は手垢がつき易いことも事実である。形式に安住してこころを伝えたつもりになってしまっていないかの問い返しは怠ってはなるまい。詩人とはその手垢のついた言葉の根源的な原石ともいえる本来の意味と常に格闘している存在ではなかったか。

「冥福をお祈りします」、「大勢の観客は王朝絵巻に酔いしれていました」などの常套句に頼ることで何かを表現したつもりになってしまっているアナウンサー同様、葬儀等の儀式をこなしているだけで仏教へのご縁を取り持っている気になっている僧侶、あるいはその儀礼をも軽んじている現代人。考えなければならないことは山ほどある。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 パーマリンク
  1. ピンバック: Tweets that mention 〜千福寺〜りんどうホール〜 - 形とこころ -- Topsy.com

コメントを残す