真宗教室

真宗教室の例会日。本日より、曇鸞章に入る。曇鸞大師の事跡に関しては『高僧和讃』の曇鸞讃にも描かれてあるように、有名なエピソードとして陶引景(=陶隠居)の元で仙人の教えを極めたとされる曇鸞大師が、菩提流支三蔵に出会う場面がある。中国には不老長寿の教えがあるが、仏教ではどうかと問いただしたのに対し、菩提留支三蔵は地につばを吐き、「どんなに不老長寿を誇ろうが、それはどこまで行っても迷いの中のこと、そしてやがて死んでゆかねばならない。これに対し仏教は不死の教えである」と大経(浄土論という説もある)を授けたという、例の有名な話。

曇鸞大師が不老長寿を求めた最初の動機は、大集経を注釈するのに自分の人生に残された時間がないことからくる焦りから不老長寿を求めたといわれる。ところが陶隠居の元での修行中にその動機が見失われ、不老長寿そのものが目的になってしまい、それを誇る始末である。

菩提留支が地につばを吐いて、厳しくそのことをいさめたというこの逸話は、現代の我々にもまさに当てはまろう。

みんな「健康・健康。元気で長生き」を至上命題、金科玉条にしているが、何のために元気で長生きしたいのか、長生きして何をするのかを見失った現代人に対する痛烈なカウンターパンチであろう。

お金儲けが悪いのですかと開き直ったヒルズ族がいたが、お金儲けそのものが悪いわけではないのだろうが、お金儲けして何するのかという、(さらに突っ込んで、他者の幸せに貢献するためといって欲しいが)ことを見失い、お金儲けそのものが目的であるような人生は、空しいといわざるを得まい。

同じように、元気で長生きして何をするのかを見失った健康ブームもやはり空しい。

曇鸞大師の逸話は、そのことを如実に示している。

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