別れ

夜、部屋で大河ドラマを見る。いよいよ越前北の庄城落城の編。お市の方と柴田勝家の悲話については福井の人なら皆さん知っている。三姉妹との別れの場面では泣けて仕方がなかった。テレビドラマなんぞでここまでないたことはかつてない。何故だ?と自問する。

お江が母のお市の方に「母上、私が死ねばまた母上とお会いできますか」と問う。母は静かに縦に首を振った。「ではその日を楽しみに私は生きて参ります」とこの生木を割くような別離を引き受けるシーン。脚色家の筆になるものであるとはいえ、重く強くしかし温かく自分の胸を打った。

それにしても何故と再度自問。その理由に思い至るのに時間はかからなかった。

今日昼間に見た、被災後まもなく撮影された映像。小学生のお嬢さんが、「お母さんが流されたよう、お母さんが流されたよう、お母さ~ん・お母さ~ん」と潮の引いた海に向かって声をあげて泣いているシーンとぴったりオーバーラップしたからだ。

歴史に刻まれ、人の記憶に語り継がれる悲話もあろう。しかしそうではない、そして圧倒的に大多数の別離の涙。他者にも伝えがたいその悲しみを静かに覩見された阿弥陀様の悲しみがお浄土となって実現された。二百一十億の諸仏国土・人天界の国土の粗妙を覩見してこの悲しみを引き受けるとたちあがられた方がいてくださった。

たとえ、今の世に受け入れられがたく、何をたわごとを!と退けられようと、私たちは阿弥陀様がいらっしゃいますよ、また会える世界があるんですよ、お浄土があってよかったですねと伝え続けねばならない。

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