月別アーカイブ: 2011年8月

山翠苑物故者追悼法要

自分が千福寺に入寺する前から続いている福井組の活動の一つに、市内の老人ホーム山翠苑における物故者の追悼法要がある。毎年8月の最終日つまり31日に法中方が集合しこの苑に入居しここで

人生を終えて行かれた方々の追弔会(ついちょうえ)が営まれてきた。あくまで奉仕的な意味合いのもと、都合をつけた住職あるいは若院が揃って読経、そのご輪番制で法話を行う。毎年20名以上の法中による読経は、法要会場としてしつらえられたホールに響き渡る。苑長(施設長)以下入居者、都合のつく職員、そして故人の遺族の方々が参列しお焼香、聴聞されるのである。

法要を終え、丁重に施設の職員に見送られ帰山。

今日で8月も終わり。昨年ほどではないにせよ、年々暑さは厳しくなっているように感じられる。子供のころから身にしみついた8月で夏休みは終わりという刷り込みは、とっくに長い夏休みとは縁遠くなった今も確かに体のどこかに染み付いているようだ。ゆく夏を惜しむ感覚は、夏休みが終わるという感覚とどこかでつながっているような気がしてならない。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 | コメントする

布教団研修会二日目

昨晩は、他教区の数名の布教使仲間と懇親会の後二時会へ。せっかく名古屋へきたのだからジャズのライブハウスへいこうと提案したが結局最後まで、とある店で時間を過ごした。

午前中は、昨日の講義の続き。申し訳ないが講師の言わんとすることはレジュメを読めば大方わかるし結局主催者の意図した研修会にはならなかったのではないかと言うのが自分の感想。

帰りは、遅れて出席した福井別院の輪番お乗せして四人で帰福。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 | コメントする

布教団研修会

本願寺の全教区のブロック分けの呼称でいうところの第二ブロック(東海・中部・北陸地区)の布教使の研修会が本願寺名古屋別院で開催され、今日明日と参加する。

福井別院の職員N氏・S氏と自分の車で名古屋に向かう。講師は東京教区の住職で東洋大学非常勤講師・東京仏教学院講師の本多静芳(ほんだ しずよし)師。会場には沢山の布教使諸氏の顔。過去のこの研修会で知り合いになった他教区の布教使さんとも挨拶を交わす。

ところで、この種の研修会でいつからだろうか、講師のお名前紹介の仕方が ○○ ○○師 ではなく ○○ ○○さんという表記に変った。正直申し上げて自分はどうもこの表記法になじめない。これは多分基幹運動を反映したものなのだろうと思うが、何故 ○○師 ではいけないのだろうか。御同朋・御同行の精神と お教えくださる講師を ○○師と仰ぐこととは少しも矛盾しないと自分などは思うのだが、どうもそうではないとお考えになる方の声が強かったのだろうと拝察する。浄土真宗は自らが師匠となのることはあるべくもないが、しかしお念仏のご縁を結んで下さる方を師と仰ぐことは何の問題もないはず。その意味で、浄土真宗は「弟子道」であるとさえ聞かされたこともある。

渡されたレジュメの表記法からして違和感を感じつつ講義に入ったが、渡されたレジュメのテーマと講師の問題提議の講義が全く違う。主催者の名古屋別院の担当の諸氏の一応の説明はあったが、これも違和感を増長させる一因となった。

実は講師は住職と同じ大学の出身。彼は卒業後東洋大学に学びなおし、仏教学を修め問題意識を深めつつ至った結論が、「親鸞聖人の教学」と「本願寺の教学」は全く別物であるという結論に至ったのだそうだ。講師の用意されたレジュメはS元龍大教授の本を底本にした抜書き。

提議をうけての班別話し合いの時間も、結局各班ともに講師のレジュメと研修テーマとの齟齬ゆえに、深まりのある話し合いはできなかったのではと言うのが自分の印象。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 | コメントする

日曜講座

日曜講座の例会日。お勤めの練習は今回と来月とで行譜(ぎょうふ)を行う。本願寺派では一応、日常の勤行は正信偈草譜ときめられている。本山でも別院でもそして末寺さらにはご門徒のお宅でも、日常勤行としては正信偈草譜。では行譜はいつ勤めるのかというと、ご家庭ではたとえば毎月の親鸞聖人のご命日(16日)や亡くなられたご家族のご命日などに用いられる。それと福井ではお通夜のお勤めは行譜で勤められることが殆どである。

お勤めの練習をしながら思ったことを皆さんにお話した。これだけ情報が手に入りやすい時代であり、お勤めもCDやカセットテープで販売されているが、どれだけ繰り返しきいて練習して正確に覚えたつもりでも細かいチェックをしてくれる人を通さないと我流にになってしまいますよと。

多分同じことは、茶道や華道でもいえるに違いない。映像つきの(ビデオやDVD)解説はあるだろうが、それだけでマスターできると思うのはナンセンス。さらにいうなら仏事作法や宗教そのものも宗教書や解説書でわかろうというのも同じ過ちを犯すことになる。

若いころ先生に言われた言葉を思い出す。ほんの一握りの本物の天才は独学でいいだろう。師につくとかえってその天賦の才能が小さなスケールに納められてしまう場合もあるだろう。しかし我々のような凡人は師につかないと我流や思い込みの独りよがりに陥るのが関の山だと。

禅家ではこれを野狐禅と称して一番恐れるという。

マニュアルや手引書、解説書の類を否定するのでは決してないが、それらを読むことでわかったつもりになることは避けねばなるまい。やはり自らの足を運んでその場に身を置くにしくはなしということか。

茶話会のあと、丸岡町W家の一周忌に向かう。

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 | コメントする

蓮の鉢

午前中、市内Y家三回忌法要。寺を出ようとしたその時、軽トラックのお客さん。蓮の鉢と花との管理をして下さってきたM川さんがいつもの笑顔で車から降りてこられた。

「蓮の時期も終わったので、鉢の手入れに来ました」。

今年の半期、長い間咲いてくれた。本当に蓮は本堂のお荘厳そのもの。法事に出立しなければならなかったのでM川さんの写真を撮る時間がなく、挨拶もそこそこに失礼した。

法事のY家の当主は、昨年の日曜講座の受講生。まだ40代の若さながら、ちゃんと門徒式章をつけてご法事に臨まれる。少しずつではあっても、浄土真宗門徒としての自覚を持ってくださる方が増えて下さることがありがたい。

帰山してM川さんの仕事のあとをパチリ。そういえばM川さん、さっき車から降りてまず本堂に合掌礼拝するときにわざわざ門徒式章を着用しておられたことをあとになって思い出した。

IMG_0814[1]

カテゴリー: JazzBose空言戯言日記 | コメントする