投稿原稿」カテゴリーアーカイブ

不自由ということ、不幸ということ

不自由ということと不幸であることは意味が全く異なりますね。不自由を望む人は少ないでしょうし、不幸を願う人もないでしょう。だからといって、不自由と不幸は同じかというと、そうではないはずです。
私事ですが、私の父は晩年失明し、眼の不自由を抱えてその生涯を終えました。眼の不自由は隠しようのない事実ではありましたが、不幸であったかというと話は別です。
こんなことがありました。
ご門徒の法事に出かけた折、お斎(おとき)の席で隣に座られた、元校長であったという親戚の方がこんな質問をされました。
「お見受けしたところ、大分眼がお悪いようですね」
「はい、今ではほとんど見えません」
「そうですか。それはご不自由なことですね。でもあなたはお坊さんなのだから、信仰の力でそれは何とかなりませんか?」
校長まで勤め上げられた教養人であるはずのこの方の質問の意図が、どこにあるのか明らかです。信仰の力でその不自由な眼が自由に見えるようになってこそ信仰のご利益であり、それが宗教のすくいなのではないかということでしょう。
しばらく考えて父はこう問い返したそうです。
「わたしは不幸な人間に見えますか?」
「いや。眼はご不自由なようですが、不幸を背負ったような暗さは感じられませんね。」
「あなたにそう言っていただけたのなら、もう何とかなっているんですよ。」
不自由であっても、不幸ではありませんと言い切れる世界を頂いていればこそでしょう。お念仏は逃れがたい厳しい事実の中に、意味と喜びを見出す智慧のはたらきとなって、私の上に躍動していてくださいます。
(善巧寺便りへの投稿)

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前を訪へ/さきをとぶらへ

親鸞聖人は畢生の著「教行信証」を結ぶに当たり、道綽禅師の「安楽集」から御文を引かれます。「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん人は前を訪へ、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海をつくさんがためのゆえなり」と。「訪(とぶら)う」とは、現在多く用いられている「弔う」と同じ意味であり、問いたずねるということ。
前に生まれた人は、後に続く者に、道を教え、導いて下さい、そして後に生まれた人は、先人に進むべき道を問い訪ねていきましょう。そしてその営みがあい続いて、途絶えることのないように。なぜなら、一度きりの掛け替えのない苦悩のいのちを生きる者どうしなのだからと。
お浄土のお法が、今日の私に伝えられるために、どれほどのいのちの歴史があったのか、ということに思いを馳せましょう。それは私のいのちに連なる祖先の方々は無論のこと、まさに無数ともいうべき有縁の方々のいのちの歴史。
人は、人なるが故にいのちの不安ともいうべき苦悩を引き受けねばなりません。私はどこから来てどこへ行くのか。この私のいのちにどういう意味があるのかと。
幸いにして私たちは、お浄土のあることをお聞かせにあずかりました。必ず仏となるべきいのちを生きるものであることを知らせていただきました。このいのちの帰るべき方向と、如来様からそのいのちは掛け替えのないいのちと願われ続きてきたことを、先人は永代に伝えるために、このご本堂を私たちにまもり残して下さいました。
阿弥陀様のご本堂があり、ここで浄土のお経が読まれ、説かれ続ける限り、後に生まれるものも、この苦悩の人生を空しく終えることなく、同じ一つのいのちの世界に帰って行けるのでしょう。
永代祠堂経。後に生まれた者として、先人のお心を訪ねつつ、前に生まれた者として後に続く人に、そのいのちは阿弥陀様から願われたいのち、お浄土に帰る尊いいのちですよと伝え残してゆく大切なご法縁。
(善巧寺便りへの投稿)

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混迷と苦悩の時代こそ

平成の世の我々は、蓮如上人の生きられた中世と共通する混迷の時代を生きているとはよくされる指摘である。政治・経済・教育・医療・地球環境問題などの各分野が抱える諸問題は、戦後50年を経て、時代が大きな転換期にさしかかっていることを物語っている。そしてひとり宗教だけがその埒外に安閑としていられる時代ではない。ただしこのことは真実の宗教の果たす役割の重要性を意味しこそすれ、伝統宗教の存在意義が終わったなどというのは見当違いの妄説である。
我々のご門主は、昭和55年、第24代の本願寺門主を継職されるに当たり、広く内外に「教書」を発表、決意のほどを明らかにされた。その「教書」はこう結ばれる。
「念仏は、私たちがともに人間の苦悩を担い、困難な時代の諸問題に立ち向かおうとするときいよいよその真実をあらわします。私はここに宗祖親鸞聖人の遺弟としての自覚のもとに、閉ざされた安泰に留まることなく、新しい時代に生きる念仏者として力強く一歩をふみ出そうと決意するものであります」と。
時代の混迷と苦悩が深ければ深いほど、お念仏のみ教えは私たちに何が真実かを訴えかけてくる。お念仏とはそういうものなのだ。
蓮如上人が目指し、私たちに示されたこと、すなわちお念仏を究極のよりどころとしてこの人生を生きるという一点を私たちもきっちりと見据えておかなければならない。それが混迷深き時代を生きる我々に対する蓮如上人の生涯をかけられたメッセージである。
(善巧寺便りへの投稿)

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